未だに憲法9条があるおかげで、戦争に巻き込まれないですんでいると思う日本人は多い。そうした平和ボケが生まれる背景について、見事に分析して見せたのが、生まれは東京であっても、県立会津高校を卒業し、母方は会津藩士であった、天才思想家小室直樹である。

 小室は日本人の特異な文明観について論じている。国連を例に挙げながら、西洋人は国連に関して、あくまでも人間がつくった一つの制度と考えるのに対して、日本人は国連を自然の賜物として受取ってしまうというのだ。

 しかし、小室が言うように「国連は出来は悪いかもしれないが、正しい認識をもって取り組めば、それなりの存在理由があることがわかる」(『新戦争論』)のであり、その程度の代物なのである。

 だからこそ、小室は国連について「自然の果実であるかのように勘違いして、ただただ神様に感謝し、いつかは奇跡が起こって、車に羽が生えて空を飛ぶこともあろうことなどと馬鹿げた期待を以てはいけない」(『同』)と断じた。 

 憲法もそれと同じく自然の賜物と勘違いしていることが問題なのである。神様が与えたくれたものと信じ、それを変えることを良しとしないのは、そこに全て起因する。

 小室は「戦争は文明の所産なのだ。制度なのだ。自然現象ではない。文明であるのならば、それ相応の構造があり論理があり、手続きがあるはずだ。したがって、根本的な問題は、我が国に戦争が起こったらどうするか、ではない。我が国をめぐって、どのようにして戦争は起こるかで、である」と書いている。受け身であってならず、対処方法を考えておくべきなのである。。

 さらに、忘れてはならないのは、現在の国際社会では、一旦事がおきれば、それぞれの国家の自己救済しか方法がないということだ。国家の権限で危機的な状況を乗り切らなくてはならないのである。だからこそ、国連憲章では国家が武力を行使することを容認しているのだ。主権国家の上の権威はどこにも存在しないからである。

 いうまでもなく、国家としての存立の最低条件である「交戦権」は、国民の命を守るための最低の条件である。今さら嘆いても始まらないが、それを認めない憲法を押し戴く日本人は、何の準備もないままに危機的状況に突入しようとしているのだから、もはや救いがたいとしか言いようがない。