辻潤の母親は会津藩江戸家老の娘であったというのは以前に書いたことがあるが、その人となりも会津人の一つのタイプのような気がしてならない。虚無思想家の彼は、世に背を向けつつ、その才能を使い果たすこともなくこの世を去った。

 辻はスティルナアの『唯一者とその所有』を翻訳し、日本の思想界に一石を投じたが、あまりにも孤独の淵を歩むことに徹したために、世の中の嘲笑に耐えるしかなかったのである。

 菅沼青願の『わが人生の教師よ―駄々羅先生を憶う―』(『虚無思想研究』下 大沢正道編)の一文をなぜか切なく、それでいてイエス・キリストのような人物に思えてならないから不思議である。

 気仙沼に住む菅沼を二度目に訪ねたのは、昭和十六年十二月五日のことであった。太平洋戦争の火ぶたが切って落とされる直前であったから、なおさらその日付が思い出されるのだろう。妻からの電話で家に戻ってみると、「垢じみた十徳姿のヒゲぼうぼう、面やつれのした先生が、老父母を相手に焼き芋を食べながら話をしているところであった」からだ。

 そのときの辻の姿がまた泣けてくる。菅沼が「よく見れば十徳の下に古ぼけた袷(あわせ)に垢で黒くなった晒布の肌襦袢一枚切り、手首も足首も垢で汚れ、おまけにひびまで切らしている有様だった」からである。

 まるで乞食そのものである。しかし、辻を師と仰ぐ菅沼は、そんな思いを抱く人間ではなかった。「肉親が舞い戻って来たような気がして目頭が熱くなって困った」というのである。そして、菅沼の家には、辻の来訪を知った者たちが駆けつけてきたのである。

「先生の現れたことが、その日のうちに町内の仲間に知れると、酒を下げてくるもの、タバコを持ってくる者、酒の肴を運んでくる者等々、次々と自分の家にやって来て、一別以来の挨拶、まるで賑やかになった。先生の寒そうな恰好を見るや、すぐ立ってメリヤスのシャツとズボンを求めて来て、あてがう者もあった。『僕は洋服の時以外はこんなものは着ないんだがネ』と言う先生も、『ここは東京や小田原とは違って寒いから』とすすめられて率直にその厚意を受けるのだった」

 どんな偉い先生であろうとも、辻のようなもてなしされ方をされるのは稀ではないだろうか。名も無き一般の者たちよりも、さらのその下の身なりをして、一切恥じることないというのは、まさしくイエス・キリストと同じではないだろうか。

 辻は菅沼宅に一ヶ月滞在したというが、真珠湾奇襲攻撃の報を耳にして、辻は「困ったことになったネ、青顔、真珠湾の奇襲ぐらいでこの戦争が勝てるなら、こんな都合のいいことはないんだが、これは大変なことなんだ、僕の観る目では日本は必ず負けるよ」と口にしたのだった。

 菅沼をして「全く身にはボロを纏う乞食坊主の風体なれど、内部生命の焔が円光となって、先生の頭上に輝くを自分は見た。そして、他愛もなく自然と惚々と合掌礼拝せずにはいられなくなる自分であったのだ」と言わせしめた、辻の著作を読むことを考えている。虚無思想を軽んじてはならないのである。