革マル派の議長であった黒田寛一は、中核派との内ゲバを泥沼化させた張本人である。「赤子の尻を叩く」と評して暴力を肯定したことは、断罪されてしかるべきだろう。しかし、黒田が成し遂げた思想家としての営為は、それとは別に判断されなくてはならない。現実政治を変えるために他党派との連携を重視した中核派と違って、己の反帝、反スタのイデオロギーを深化させるにあたって、西田幾太郎や田辺元といった京都学派から多くの者を学んだからである。

 しかも、それが黒田が失明し、仲間が読み上げるのを聞きながら、薄明の世界で悪戦苦闘したからである。そして、黒田は72歳にして田辺元の『歴史的現実』をこぶし文庫で復刻し、その解説文を自らが担当したのである。

 黒田はポストモダンが泡のごとく消え去りつつあることを指摘し、「もろもろの学説の輸入と研究に励むことも必要ではあるが、明治以降の日本の哲学の最高峰をなす西田・田辺哲学が、今ふりかえられるべきではないか」と問題提起をした。

 黒田は京都学派を無自覚に批判した唯物論哲学者の底の浅さを批判し「哲学もまた『時代の子』である限り、歴史的な被制約性をまぬかれることはできない。問題は過去に生み出された哲学的諸成果を後代の見地から、しかも先入見にとらわれた党派的見地かをもって断罪し、湯もろとも赤ん坊を流すような愚をおかさないことにある」と書いたのである。

 京都学派を黒田が意識することになったのは、梅本克己や梯明秀を通してであった。とくに田辺の著作に関しては『哲学通論』と『カントの目的論』と『哲学入門』を読む程度であったと。黒田が『実践と場所』第一巻を執筆する過程で、田辺元の講義録『歴史的現実』を耳読したことで、今日的意義を確認したのだ。

 黒田はやがて出征するであろう京都大学生に語った文章を簡潔に要約する。「『歴史的現実』とは、これが過ぎ去ったものからおくりこまれたものとしては歴史的現実であるが、未だに来らざるものに促迫され・未来を行為的にひらく現在としては歴史的現実である、という存在論が展開される。この存在論は、主に『時の構造』として論じられる。過去から現在へ、そして未来へ、と一方的・直線的にながれてゆく自然的時間の観念を前提にしながらも、これとは逆の方向の時間の流れを、現在的現実において、場に於て自覚しなければならないとされる。過去からおくられた未来から逆規定されるものとしての現在は、空間軸と時間軸との交点より以上のものとして把えられるべきであるとされる」

 黒田によれば、田辺の「時の構造」に、悲劇的な現実を甘受しなくてはならない宿命を語ったということであろう。抽象的な表現の困惑してしまうが、田辺の存在論では、投げ出されてあることが重視され、そこでの決断ということになる。

 また、黒田は、田辺の種族の概念についても彼なりの理解を述べている。「人間がそれから逃れることのできない『種族』は過去からおくりこまれたものであり、過去を想起し未だ来ないものを予科しうる力を具有する『個人』は、企投的行為を成す存在として『未来』にあたるとされ、存在論的には『未来と過去との中間』であると規定される現在には『人類』が位置づくとされる」

 ここでも宿命論が述べられている。それを突破して人類を目指すにしても、日本へのこだわりが過度に強調されているというのだ。大東亜戦争を完遂するために、若者を死地に赴かせることになった田辺は、はなむけの言葉として、自らの哲学を語ったのである。

 しかし、日本は大東亜戦争で敗れたのであり、そこから目を背けることはできなかった。黒田はそのことも踏み込んで論じている。「こうして『自力ー他力』の見地から自己の哲学的営為も整序されてゆく。『種』における個体の行為は、いまや『他力行為』と規定しなおされ、絶対否定たる敗戦後という歴史的現実における歴史的行為は、『懺悔行』でなければならないとされるにいたる。このことは明らかに、哲学的思弁は宗教哲学に転じ、自力行為論は他力の行信の哲学に転換され、行信証が哲学的思惟の中心をしめるにいたる、ということを示している」

 黒田はなぜ田辺を再評価したのか。未来を切り拓く決断にあたって、何を引き受け、何を目指すかを問う作業は、革命思想家としての、黒田の永遠のテーマであったからだろう。京都学派という膨大な知的集積を、保守派の側が顧みることなく、逆に黒田らにお株を奪われているのは、あまりにも皮肉である。西田ー田辺の門下の不振は、日本の保守思想界の低迷を物語っているような気がしてならない。