娘の新潟市に行ったついでに昨日、ブックオフで柄谷行人の『世界史の実験』(岩波新書版・2019年出版)を購入しました。柄谷にしては珍しく平易に書かれており、あっという間に読み終わりました。衝撃的であったのは、柄谷の柳田国男論はそれまでの定説を覆すものであったからです。

 よく柳田は体系がないとか批判されますが、柄谷はそれに与しません。内的な体系を見出そうとしたのです。そして、柄谷は柳田自身が「現在の国内の事実はほとんどこの変遷のすべての階段を、どこかの隅々に保存している。一つの土地の見聞では、単なる疑問でしかない奇異の現状が、多数の比較を重ねてみればたちまちにして説明となり、もしくは説明すら要せざる、歴史の次々の飛び石であったことを語るのである」(「実験の史学」)と書いていることからヒントを得たのです。

 しかも、柄谷は「日本列島は『実験の史学』に最も適した場である」と指摘するとともに、その理由についても言及しています。日本におけるフィールドワークが普遍性を持ちうるという根拠を、柄谷は大胆にも提示したのです。

「このことについて説明しましょう。現在確認されているのは、現生人類が、五、六万年前にアフリカから出て来て、各地に移動し広がったということです。日本列島に後期石器時代人が渡来したのは、およそ三万年前だと考えられています。地球が寒冷化した時期で、北で宗谷海峡と津軽海峡、南で対馬海峡がほぼ陸化したので歩いてやってきたのでしょう。温暖化以後は、中国大陸、東南アジアから『海上の道』を通って、つぎつぎ渡来した。日本列島はハワイ諸島と同様、その先に進めないので、そこに人々が累積し混合していった。その跡がさまざまな形で残ったわけです。言語にも残っている。これらの形跡には。日本人というよりも現生人類の歴史が刻印されているといえます」

 もう一つ、柄谷が着目したのは、柳田が「現在の我々日本国民が、数多の種族の混成だということは、実は、まだ完全には立証せられたわけではないようでありますが、私の研究はそれをすでに動かぬ通説なったものとして、すなわちこれを発足点と致します」(「山の人生」)と書いていたことです。

 柳田が「一国民俗学」を唱えたことに関しては、赤坂憲雄が「山人を否定して一つの日本を作ろうとした」と批判しています。「山人」を切り捨てて「定住農耕民」に座標軸を移したと決めつけたからです。しかし、柄谷はそんな単純な見方はしません。

 武士という存在について、柳田は「日本では、古代においても、中世においても、武士は山地に住んで平地を制御したのであります。古代には九州の山中にはすこぶる獰悪(どうあく)な人種が住んでいました」(「九州南部地方の民風」)と書いていたからです。

 柄谷はその文章に触発されて「古代の王朝国家は、このような連中を制圧することができなかった。彼らは王朝国家の機構内にいれようとしたが手に負えず、結果的に、それを媒介して武士が国家権力を握るにいたった。それが鎌倉幕府である。それでも、この時期に間々田、武士と農民とは一体であった。両者が分離されたのは、近世になってからであった。柳田によれば、その原因は、武器・戦術の変化であり、また、武士を農地から離れた城下に呼び寄せる必要が生じたからである」と断言しています。

 そして、柳田が「日本の社会にとっては、後にも先にも比類をみないほどの悲惨なる大革命であった」と嘆いた一言に、柄谷は共感を覚えたのでした。柳田民俗学の解釈をめぐって、柄谷の問題提起は正鵠を得ています。柳田民俗学というのは「山人」と「定住農耕民」に断絶があったわけではなく、柳田の問題意識は一貫して変わらなかったのであり、そこに柄谷は、柳田民俗学の可能性の中心を発見したのです。