日本や世界の動きからも目を離せませんが、それ以上に身近なところで、友が病気になったり、亡くなったりすると、老いということを痛感させられます。携帯で話をしたり、メールで近況を報告し合う友の数も、このところめっきり少なくなってしまいました。

 そんな思いに浸っていると、無性に遠野に足が向いてしまいます。三度出かけていますが、一人でブラリと散策した日のことが忘れられません。

 わけもなくただ歩きたくて、遠野駅から遠野市立博物館まで行き、その帰りに食堂喫茶というか、そんな店で珈琲を飲み、少しばかり地元の人と話をしました。いつだったか無理に思い出したくないのは、柳田民俗学の世界が、そうした時間の感覚とは無縁であるからです。

『遠野物語』の「遠野郷(とおのごう)は今の陸中上閉伊郡の西の半分、山々に取り囲まれたる平地なり」の出だしの文章だけで魅了されてしまいます。そして、遠野の説明も旅情をそそられます。

「此地へ行くには花巻の停車場にて汽車を下り、北上川を渡り、其川の支流猿ケ石川の渓を傳ひて、東の方へ入ること十三里、遠野の町に至る。山奥には珍しき繁華の地なり。傳へ言ふ、遠野郷の地大昔はすべて一圓の湖水なりしに、其水猿ヶ石川と為りて人界に流れ出でしより、自然に此の如き邑落をなせしなりと」

 読み始めるとすぐに本編に入り、山人の話や山に入ってしまった娘のことが、あたかも身近な出来事のように綴られています。「二十年ばかりも以前のことかと思はれる」との一言で、はっきりした日付はぼやかしてしまうところが、『遠野物語』の真骨頂でもあるのです。

 柳田民俗学というのは、ありふれた暮らしのなかに、日本人としての懐かしさが息づいていることを教えてくれます。だからこそ、遠野のような場所がフィールドワークにはふさわしいのです。『遠野物語』の文庫本をポケットに入れて、何としてでも5月か6月には遠野に行きたいと思っています。