足の踏み場もないほどに散らっていた部屋が、ようやく片付いた。家人のおかげでサッパリした。廊下の書棚も本が並んでいる。それでも僕は、目を通さない本や資料的価値がないものは、全て処分するようにしている。だからこそ、一冊一冊が大事に思えるのである。
 整理整頓されたので、竹内好の『魯迅』が目に飛び込んできた。魯迅その人の文章が難解なので、その解説本となると、かなり手ごわい。魯迅の「魏普の風土および文章と薬および酒の関係」を論じた箇所で、いつものように立ち止まってしまった。
 竹内は「歴史に登場する人間、ここでは文学者だが、その人間んお生き方を通じて、当時の社会を描いたのである」と書いている。
『三国志』に登場し、実際の主人公であると評される曹操は、側近である孔融を殺した。魯迅は曹操を断罪するのではなく、あえて「彼は実際家でありますから、こうしなければならなかったが、孔融は傍観者でありますから、自由な言説を吐けたわけであります」(「魏普の風土および文章と薬および酒の関係」)と述べることで、政治と文学との違いを強調したのだった。
 これに関しての竹内の見方は「殺人者は批判者を殺すが、批判者は殺されることによって殺人者を批判する、という関係である。政治は政治的には有力であるが、文学的には無力であり、無力である文学は、無力であることによって文学としては絶対である」というものであった。
 竹内のこの本は昭和19年の末に世に出た。竹内の心の葛藤をうかがい知ることができる。大東亜戦争に突入したことは、政治的には仕方がなかったとしても、文学者としては甘受できなかったのだろう。
 それはまた、竹内にそう書かせしめた魯迅のすごさでもあった。僕は岩波の『魯迅選集』をまだ読破していない。岩波文庫で何冊か手に取っただけである。何としてでも読まねばならないと思っている。今の中国を語るにしても、魯迅を抜きには語ることができないからである。