政党を組織し、政治家になるというのは、マックス・ヴェ―バーの言葉を待つまでもなく、悪魔とも付き合うということだ。

 昨今の床屋政談的なマスコミとネットの論調は、そうした政治の本質をまったく無視している。国家の裁判所も警察も、さらには軍隊というものも、合法的な暴力的な組織にほかならないのである。

 民主主義は非暴力ではない。国家を維持するための暴力を容認しており、それをどのように私たちがコントロールするかなのである。

 日本の神道に立脚する思想家に葦津珍彦がいた。葦津の主張は、暴力的な国家にならないために、皇室を押し戴くということであった。「統合された一国民」に価するような「信条の一致点」さえあれば、反対の自由も認められ、活発な議論が暴力なしに行われるからである。

 葦津は「暴力が非道の手段たることをやめて、正義の手段となり正義の保障となるとき、日本人は通常これを暴力とよばずして『武力』と称する。日本の武道は、神道との深い縁の下に発達した。武道の極致は、神威に通じ、精神的威厳をもって、剣を血ぬらずして暴力を屈服するにあるとせられた」(『土民のことば』「集団暴力の理論」)と書いたのである。

 しかし、葦津も認めているように「信条の一致点」がなく、破壊のための破壊を叫ぶ者たちに対しては、毅然として私たちは立ち向かわねばならない。それを行使する国家緊急権を留保して置かなければならない。自由と民主主義を守るためには、それなりの覚悟が求められるのである。