ささやかな僕の物書き人生の始まりは、柳田国男の作品を一冊一冊読み解くことであった。しかも、僕の『郷愁の民俗学ーみちのく人の柳田国男ノート』は自費出版で世に問うたのである。それ以降は政治家の伝記や会津の歴史を書くようになったが、頼まれ仕事が大部分であった。最近になって『土俗と変革』を出版したことで、自分なりのテーマに、ようやく手が付けられるようになった。そして残された人生を考えると、柳田民俗学の世界に再度戻る必要性を感じている。

 柳田を論じるにあたっては、詩的な感受性が研ぎ澄まされていなくてはならない。堂々巡りをしているような文章ではありながら、最終的には、一定の結論を示しており、それをどう判断し理解するかは、読み手の力量がかかっている。三島由紀夫や橋川文三には、そうした相通じる感受性があったが、柳田の民俗学の後継者を名乗っている者たちには、それが受け継がれているようには思えない。

 それと対極に位置するのが、鶴見和子のような柳田国男論である。筑摩書房の『柳田国男集』に収録されている「解説文」には、図式化された理論によって、明確に柳田理論が位置づけされている。それをそのまま踏襲する必要はないが、そこでの鶴見の主張によれば、西欧のように日本が急速な近代化を成し遂げたとしても、あくまでも内発的であり、外部の力だけではない、というのだ。

「西欧理論(たとえば、ウェーバー、マルクス等がそれぞれ西欧社会の歴史的体験にもとづいて構築した理論体系)によってすくいあげることのできない部分は土俗的発展論によって、探究するのがよい、とわたしは考える。日本の近代社会の中に、原始・古代・近代・超近代が入れこ細工のように共存する社会ーと見なす。もしそうだとすれば、それを全体としてとらえようとすれば、複眼的接近法が当然必要とされる。そのいみで、柳田の民俗学的接近法は、西洋を手本とした近代化論と、互いに相補的な有効性をもつ」

 鶴見の「柳田の学問論」を成り立たせしめている三つの部門の説明は見事である。「有形文化」は「眼に訴えるもの」であって、衣・食・住・村・家・年中行事・神祭等々がふくまれる。「言語芸術」は「耳を通して得るもの」であって、新語作成。諺、謎、歌謡、昔話と伝説等々がふくまれる。「心意現象」は「見たり来たりしただけでは、とうていこれを知ることができない」ことがらである。このうちの「心意現象」の研究に柳田は力を入れたということを、鶴見は注目したのだった。

 柳田民俗学の核心部分を鶴見は看取していた。「柳田が『心意現象』とよぶものは、広いいみでの常民の信仰あるいは宗教である。『有形文化』の中にも、『言語芸術』のの蟹も、年中行事や祭りや、念仏や唱文や、伝説、説話のかたちで、常民の宗教をしる手がかりはたくさん含まれている。しかし、それらは、どこまでも手がかりであって、意識的、無意識的な信仰—内部感覚ーに到達するための手段だと考えた」との見方は的を射ている。フィールドワークを重視するとは言っても、その背後にある核心部分を射程に入れている。そこで鶴見は、柳田の「常民の歴史は、個体という観点から見れば、挫折の歴史である」という解釈に共感し、そこに「変革の原理」を見出そうとしたのだ。

 鶴見は「死者が希望して実現しなかった事業が、幾世代にわたってうけつがれ、やがて成し遂げられることがあるかもしれない」との立場から、「『祖先』、『他界』と柳田がよぶものは伝統の蓄積体である。成し遂げようとして成し遂げられなかった過去の事業の潜在的可能性の総体である。死者の念として生者にうけつがれる情動または行動のへのエネルギーとして、柳田はそれをとらえた」と断言する。鶴見の希望的観測は私たちの血をたぎらせるものがあった。

 鶴見が「正面衝突を極力回避し、表面では相手に服するように行動しながら、心底では思想的自己同一性を保持する態度は、短い目で見れば、現存する秩序をくつがえすことにはならない。しかし、中央への権力への批判がうけつがれ、持続することによって、中央権力を風化させることができるのではないか。『遠野物語』、『山人考』、『山の人生』などを、『先祖の話』とあわせてよむとき、そのような可能性を考えるに至る」と書いたことに関しては、僕も共感を覚えた時期もあったが、今ではそうした楽観主義から距離を置くようになった。

 柳田民俗学が常民を問題視したのは政治的な担い手を発見するためではなく、忘れられた歴史を発掘することであった。それがどのような事態を惹起するかは、柳田にとってはどうでもよいことではなかったか。生者と死者の絆があるかどうか、それがどうなるかが全てであったと思う。後ろを振り返ることを説く、保守的な情念を無視するわけにはいかないからである。