日本の安全保障上の危機を訴えると、決まってかつての過ちを繰り返すのか、という言葉が返ってくる。しかし、それは心情倫理を重んずる人たちの理屈であり、現状を直視しない平和ボケである。

 マックス・ヴェ―バーは『職業としての政治』(清水幾太郎訳の『政治の本質』に収録)において、責任倫理家と心情倫理家の違いを明確に述べている。前者は「人間の善良と完全無欠とを前提する権利を持たぬ。彼は、自己の行為の結果について見透しのつく限り、これを他人に転嫁出来るなどと感じてはいない」のに対して、後者は「純粋な心情の焔、例えば社会秩序の不公平に対する抗議のような焔が消え失せないようにする『責任』を感ずるだけである」と書いている。

 さらに、ヴェ―バーは政治の目的と手段に関しても言及している。「多数の場合において、『善き』目的の達成は、道徳的に疑わしき或いは少なくとも危険な手段、並に悪い副作用の可能性または蓋然性を景物に貰う結果に結付けられているという事実に、世間の倫理は触れていない。且つ人間世界の倫理は、いつ、如何なる範囲で、倫理上善き目的が、倫理上危険な手段及びその副作用を『神聖化』するものであるかを、明らかにすることはできない」と指摘しているからだ。

 日本国民の命を守るためには、時には悪魔と手を結ぶことだって必要なのである。核武装論にしても、そこまでの決断をするのは、とんでもなく勇気がいることだし、とんでもない武器を保有することでもある。

 しかし、核保有国によって、核なき国家が侵略され、国土が蹂躙されるのを見るにつけ、そこまでする覚悟が今求められているのだ。政治家は「倫理的矛盾」を引き受けなければならず、それを避けては通れないのである。

 もちろん、ヴェーバーが言うように「心情倫理と責任倫理は絶対的な対立」ではなく、両方を備えていなければならないが、最終的には徹底したリアリストであるかどうかなのである。