日本での最大の思想的論戦は、日本天台の開祖最澄と法相宗の僧徳一とが激突した三一権実論争といわれます。9世紀初めのことで、徳一が会津にあって一歩も引かなかったことはよく知られていますが、そこでの最大の争点は『法華経』をめぐってでした。

 最澄は「誰もが成仏すると述べているお経だ」と主張したのに対して、徳一は「成仏できない人もいる」と真っ向から対立したのでした。だからといって徳一が『法華経』を否定したかというと、そうではありません。「方便」としては容認したのです。信仰心を持つためには希望が失ってはならないからです。

 ひろさちやは『仏教とっておきの話366冬の巻』で「1月9日方便が絶対である」という文章を書いています。『法華経』では「はるかかなたの宝の国を目指して、砂漠を行く商人の一隊」にとっては、目的地があまりにも遠いので、当然のごとく引きかえしたくなります。そこでリーダーが砂漠の中で幻の都城を出現させ、人々を引っぱっていくしかないのです。いくら仏を目指している者であっても、時には弱音を吐くことがあるからです。

 ひろさちやは「方便とは、古代インドのサンスクリット語の〝ウパーヤ〟の訳語でその本来の意味は『近づく』である。目標に向かって一歩一歩近づく歩みそのものが方便で、その歩みそのものが尊いと教えているのが『方便』の思想である」とも述べています。

 ひろさちやは何も徳一に味方しているわけではありませんが、本来のサンスクリット語の意味を理解すれば、徳一に分があるように思えてなりません。