日本に変革の思想があるのだろうか。それを正面から論じたのが三島由紀夫であった。三島は「革命哲学としての陽明学」において、明治維新について「私見によれば、ミスティシズムとしての国学と、能動的ニヒリズムのとしての陽明学によって準備された」と断じている。

 三島は「平田篤胤の神学は明治維新の志士達の直接の激情を培った」と国学の果たした役割を評価したが、それ以上に中江藤樹以来の陽明学の影響を看取した。とく三島は大塩平八郎の著書『洗心洞箚記(せんしんどうさっき)』に注目した。西郷隆盛が死に至るまで愛読した本であったからだ。

 三島はと陽明学について「主観哲学であり、且つ道理を明らかにすることによって善悪を超越する哲学であるこの陽明学のという危険な思想は、丸山(日本政治思想史研究を執筆した丸山眞男)氏のいうところの、まさに逆を行って、権力擁護の朱子学、徂徠学の一分派という仮面に隠れながら、その実、もっとも極端なラディカリズムと能動的にニヒリズムの極限へと向かって進んでいった」と書いている。

 三島にとっては陽明学は行動の哲学であった。認識至上主義に反発した点においては全共闘とも共通していた。しかし、全共闘は機動隊という物理的な力に圧倒されて、そこで行動を停止した。その原因として三島は、大衆化社会という現象を問題視した。「大衆化社会は道理の感覚によって動くことを求めず、それ自体の物理的法則によって動こうとするからである」と批判した。

 つまり、全共闘が挫折したのは、良心的なポーズでごまかし、自分は傷を負わないという世界に逃げ込んでしまったからなのである。だからこそ、全てが中途半端に終わってしまったのだ。大衆化社会というのは、無責任の同義語なのである。

 三島が注目したのは、大塩平八郎の「帰太虚(きたいきょ)」の説である。三島の革命哲学の核心部分は、まさしくそこに集約されているのである。

「『帰太虚』とは太虚に帰する意であるが、大塩は太虚というものこそ万物の源であり、また善と悪とを良知によって弁別しし得る最後のものであり、ここに至って人々の行動は生死を超越した正義そのものに帰着すると主張した。彼は一つの譬喩(ひゆ)を持ち出して、たとえば壺(つぼ)が壊されると壺を満たした空虚はそのまま太虚に帰するようなものである、といった。壺を人間の肉体とすれば、壺の中の空虚、すなわち肉体に包まれた思想がもし良知に至って真の太虚に達しているならば、その壺すなわち肉体が毀されようと、瞬間にして永遠に偏在する太虚に帰することができるのである」

 そうした考え方というのが、良知から発するというのが、大塩の独自の思想なのだろうが、死ぬことで太虚に帰るということは、生死を超えた決断の動機と成り得るというのが三島なのである。

 それを説明するにあたって、三島は大塩平八郎が中江藤樹の遺跡を小川村に訪ねた折に、琵琶湖で体験した台風で船が沈みかけた神秘的な体験を重視する。

「自分が自分であることを忘れさえすれば、どうしてこの逆巻(さかま)く波さえも心にかかることがあろう。そう思ったときに恐れや後悔の念はたちまち湯に溶けた雪のように消え去って、跡方もなくなった。このときより私は船中にじっとしていたが、風も自ら止み、船はその後、なごやかな航海を経て坂本の西岸に着いた。夜はすでに二更(にこう)であった」

 自分を無にすれば、自ずとあるものに導かれて、玉と砕けるということなのだろう。能動的ニヒリズムというと誤解を招きかねないが、内なるデーモンの声に耳を傾けるということではないだろうか。そしてその先には平安な世界が待っているというのだろう。死線を超えることの意味を、三島は徹底的に考え抜いた末に達した結論のように思えてならない。