今の保守陣営の分裂と抗争はあまりにも目に余る。それにつけても、思い起こすべきは、明治維新を達成した薩長連合である。会津人である僕がそれを口にするというのは、ある意味許されないことかもしれないが、賢者は歴史に学ぶべきなのである。

 公武合体派であった薩摩がなぜに討幕に踏み切ったか。新時代を築くにはそれがベストだと思っていた薩摩が、勝海舟の影響で西郷隆盛が幕府は頼りにならないことを知ったからだ。会津が京都守護職に抜擢されたのも、幕府の権力を握っていた譜代がその力を失ってしまったからである。

 元治元年から慶応元年にかけて、薩摩は方針を転換した。これに対して、長州も禁門の変で怨み骨髄に達した「薩賊」という見方を改めるようになった。第二次長州征伐に、薩摩が非協力的であることは、存亡の危機を乗り切るには願ってもないことであった。

 しかし、過去のことを全て水に流したわけではなかった。とくに長州においてはそうであった。葦津珍彦は憎しみよりも政治理性を優先させた桂小五郎(木戸孝允)の力量を高く評価した。

「とくに木戸は、不信と反感とを痛感していたといっていい。しかもかれは、その強烈な感情を抑制し、理性的計算の上に立って連合を築きあげた。その連合の本質が、かくのごときものである以上、薩と長との間には、冷たい対立が秘められてはいたけれども、それは連合の外側の敵に対しては、断固として闘争する巨大は政治理性をもっていた」(『武士道』)

 この連合が明治から大正にいたるまでの、日本の政治権力の中枢を担った。民権党が登場し政党政治に移行するまでの期間は、彼らが我が国の舵取りをしたのである。

 敗者の側に属する会津人の僕であっても、権力を集中し、外国勢力に立ち向かうには、強力な政権が求められたという厳しい現実は認めざるを得ない。

 翻って現在の政治状況を考えれば、自民党の保守ばかりではなく、日本保守党を始めとする全ての保守派が結集すれば、必ずや日本は危機を乗り切ることができるのである。保守派と言っても様々な考え方があって当然だが、外側の敵に対しては、結束して断固立ち向かうべきなのである。