小室直樹と三島由紀夫がどう結びつくのかというと、それは小室直樹が書いた『三島由紀夫が復活する』(文庫本『三島由紀夫と『天皇』』)という本を私が読んだからである。昭和60年3月に毎日フォーラムから出版された本だが、そこで小室は三島に多大な共感をして、わざわざ書き上げたのだった。

 そのとき私は33歳であった。たまたま実家が会津坂下町の駅前であったので、駅の売店でその本を見かけた。そこでは買い求めなかったが、その後読むことになった。

 小室については会津高校の在学中に、同級生であった担任から変人ぶりを色々聞いていたので、すごい先輩だということで、そのときから興味がありました。昭和55年に出た『ソビエト帝国の崩壊』は目を通していた。読まなければならないとは思っていたが、ついつい後回しになったのだった。それでも数年後には読破しているが、今回改めて再読して見て、新しい発見が幾つかあった。しかも、そこで語られていることは、今私たちが直面している問題の先取りであった。

 会津ということでは、小室は東京生まれではあるが、大東亜戦争中に母親の実家がある柳津町の小学校から会津高校を卒業した。柳津温泉の花ホテル滝のやの近くには、小室が住んだ家が今も残っている。今は滝のやの持ち物となったが、京都大学に入るまでは、会津人として育ったのである。

 

 代理で講演した伊沢甲子麿

 

 三島由紀夫は昭和45年11月25日、森田必勝と共に、市ヶ谷で自刃して果てたが、その三島は、会津での講演を約束した。若くして散った白虎隊こそが、三島の理想の姿であったからだろう。会津農林雄弁部OBの要請を受けて快諾したのだが、それが果たせないので、親友の伊沢甲子麿(いさわきねまろ)に代理を頼んでいたのだ。

 会津若松市の今は稽古堂になっている場所にあった会津中央公民館においてであった。翌年の何月だったかは忘れてしまった。私の兄弟が会津農林雄弁部OBと付き合いがあったため、私も井沢の話を聞くことになった。その当時は私は浪人中で実家でブラブラしていたから、面白いと思って聞きに行った。

 ただし、もう40年近く前のことで、話した内容に関してはあまり覚えていないが、たまたまその当時、仙台市で講演した録音テープがネットにアップされていた。それでようやくどんな話をしたか思い出すことができた。

 伊沢は三島由紀夫と森田必勝が自刃する10日前に電話で呼び出されたのだ。伊沢によると、三島の生活はというのは、作家の多くがそうであるように、昼型ではなく夜型であった。つまり朝明けてから眠りにつくのだ。それで電話がかかってくるのは、午後1時から2時の間である。しかも、几帳面な三島は、一週間後に予定を入れるのだった。

 しかし、そのときは違っていた。三島は午前中の早くに電話をかけてきたばかりか、その日の夕方に会いたいと言ってきた。夕方に帝国ホテルで一緒に食事をすることになったが、三島は珍しく家族のことを語った。これには伊沢も驚いた。それまでに、三島の口から家族のことが話題になることはなかったからだ。

 

 三島が心配していたのは、奥さんのこともあるが、母親と小学4年の女の子と、小学2年の男のこのことを案じていたという。そして、伊沢は吉田松陰の辞世の句である「親思う心にまさる親心今日の訪れ何と聞くらむ」を吟じたのだった。伊沢は一週間後のことを予知することができなかった、そんな自分を恥じていた。

 そして、三島が私たちに訴えたかったことを、伊沢は代わって訴えたのだ。「三島事件というのは狂気の沙汰ではない。サラリーマン化した自衛隊に、武士の心を取り戻して欲しかったからなのである。

 三島と森田の壮絶な死は、私が高校3年生の寒い日のことであった。その時点から今日まで私は、あれは三島が自衛隊に絶望したための捨て身の行動だと思っていた。三島が自衛隊に体験入隊をしたのは、昭和40年頃からであった。

 三島は昭和43年3月28日、20名の大学生を引き連れて、自衛隊富士学校に属する滝ヶ原分屯地に体験入隊しているが、そのときのことを同年8月22日付けの毎日新聞に「わが『自主防衛』」と題した一文を掲載している。そこで三島は、かけがえのない体験をしたのである。

「学生諸君と共に、毎日駆け回り、歩き、息を切らし、あるひは落伍した。そこで同志的一體感も出来、かれらの考へも入隊以前に比べて、はるかに足が地について来たのみならず、主任教官や助教との関係も家族のやうになり、離隊のときは、學生一人々々が助教一人々々と握手して共に泣いた。私が如實に『男の涙』を見たのは、映畫や芝居をのぞいては、終戦後これがはじめてである」と感激したのだった。

 この体験入隊において三島は、山本舜勝一佐と知り合ったことで、日本の民間防衛ということを、真面目に考えるようになった。それは武人三島由紀夫の誕生でもあった。山本から三島は、間接侵略に対処するために、民間防衛隊に何ができるかを学んだのである。このため自衛隊の演習場ではなく市街地でも行われた。

 三島が衝撃を受けたのは、昭和43年10月21日の国際反戦デーであった。夕方から新宿周辺は騒乱状態となった。それを目撃した三島は、この危機を逆手に取って日本を変えようとしたのである。楯の会のメンバーも70名になった。軍隊でいえば小隊の規模である。このため、三島は自分たちの役割を模索し、皇居を死守するという戦術を山本一佐に語ったという。

 残念ながらその夢はかなえられなかった。70年安保決戦の前哨戦である前年10月21日、国際反戦デーは機動隊の力で、あっけなく抑え込まれてしまったからだ。

 三島は考え方を改めざるを得なかったはずだ。楯の会の結成1周年記念式典が昭和44年11月3日、国立劇場で行われたが、その頃に三島は山本一佐に「最終計画案」の討議を持ちかけたという。小室は「最終計画案とは何であったのだろう。このまま、だらだらと訓練をつづけることに苛立ちを抱いたのか、自衛隊勇士と結び決起する日を促したのだろうか」(『三島由紀夫が復活する』)と述べるにとどめているが、私はクーデターについての話し合いが行われたと思う。

 三島が楯の会としての憲法作りに着手することを決めたのは、それに向っての準備作業でもあった。昭和43年頃までは自衛隊が立ち上がってくれると考えていた節がある。しかしながら、三島に接近してきた自衛隊の幹部に裏切られてしまったために、あのような死を選ばざるを得なかったのだと思う。

 その人が山本一佐であったのか。その上の人間であったかは、もはや闇に包まれているが、その段階から、自衛隊幹部との絆が切れてしまったので、直接訴えることになったのではないだろうか。三島の死を文学的なものに仕立て上げようとしているのは、そうした三島の挫折を一考だにしない、誤った見方なのである。

 

 佐藤内閣に建白書を提出

 

 政治的な面が強いというのでは、小室は私の考え方とほぼ一致している。小室は『三島由紀夫が復活する』(文庫本『三島由紀夫と『天皇』』)の本に、三島が昭和45年7月、佐藤栄作内閣に提出した建白書の全文を掲載していたからだ。保利茂官房長官の求めに応じたもので、そこで記述されていることは、今日の日本の危機的状況を予言している。主な柱は武士道の復活であったが、これを闇に葬ろうとしたのが、防衛庁長官の中曽根康弘であった。自衛隊に魂が入ることに、中曽根は危機感を抱いたために、握りつぶそうとした。それをあらかじめ予想していた三島は、信頼していた保利官房長官に託したのだった。

 そこで三島は、これからの戦争は核による全面戦争ではなく、限定戦争が中心になるとの見方を示した。そして、その場合には自由主義陣営が不利になるというのだ。いうまでもなく非対称的な戦争になるからだ。こちらは規軍であっても、相手は人民戦争理論に立脚したパルチザンである。不正規戦を仕掛けてくるために、一筋縄ではいかない。

 パルチザンであれば、女性や子供まで利用するし、自分たちの楯にもする。正規軍が反撃をすると、女性や子供が巻き添えになる。そうすると、これ幸いに女性や子供が虐殺されたと大騒ぎする。人権とかヒューマニズムを旗印にすれば、世界の世論は沸騰するのが分かっているからだ。宣伝戦を重視することもあり、弱い者が命を落としてくれた方が、自分たちにとってはプラスなのである。

 全体主義国家やテロリスト集団においては、国論や言論の統一はお手の物である。だが、自由主義国家ではそれが難しい。戦争を遂行するためには障害となり、武装解除してしまえば奴隷に転落するだけである。我が国はそうした声に負けないようにするためには、日本国民の自覚が求められる。

 

 人間の命より尊いものとは

 

 三島はその建白書で「我々はヒューマニズムを乗り超えて、人名より価値のあるもの、人間の命よりももっと尊いものがあるという理念を国家の中に内包しなければならない」と書いている。現行憲法によって公にために身を挺するという考え方が失われてしまった。そこに亡国の悲劇的運命を感じ取ったのである。

 また、三島が楯の会をつくったのは、それとは無関係ではなかった。名前自体は万葉集の「今日よりは顧みなくて大君の醜(しこ)の御楯と出で立つわれは」という和歌から取ったが、限定戦争に対処するためにも、パルチザンに扇動されたモッブ化した大衆に対峙するには、民間防衛隊が必要であるとの結論に至ったからだ。バックボーンとなるのは、日本の武士道であり、それによって自衛隊ばかりでなく、日本国民を覚醒させようとしたのだ。

 小室は三島の主張に共鳴をした。だからこそ、『三島由紀夫が復活する』(文庫本『三島由紀夫と『天皇』』)を世に問うたのである。小室からしても、自衛隊は本物の軍隊ではなかった。もし自衛隊が軍隊であるのならば、ネガティブリストで行動しなくてはならない。だが、自衛隊は警察と同じくポジティブリストで行動するのである。ポジティブリストにおいては、やっていいことが明記されており、それに従わなくてはならない。それ以外は手を出してはならないのだ。ネガティブリストでは、やっていけないこと以外は、何も制限されないのである。

 さらに、警察は時の権力と一体であり、その手先とならなくてはならない。軍隊というのは、時の権力から距離を置いた存在なのである。つまり、警察は政体に属するが、軍隊は国体に属するのでる。いざとなったなら、軍隊は国家緊急権の発動すらも容認されるのである。

 あのヒットラーですら、軍部から何回も命を狙われていた。思うようにはできなかったのだ。最近の中国では、習近平は人民解放軍の幹部を次々と粛清しているが、我が身を守るためには手段を選ばないのである。

 

 唯識の思想と『豊饒の海』

 

 小室は、三島由紀夫の『豊饒の海』が唯識の思想の産物であることを理解していた。「唯識の思想の入門書」とまで位置付けていた。小室は「日本人とって、この難解無比な仏教哲学の最も手頃な解説書は?と問われれば、筆者は三島由紀夫(1925~70)の最後の小説『豊饒の海』四部作を挙げる。仏教の唯識の哲学を補助線にしたこの作品は、三島が日本人に対して残した最も適切な仏教入門ともいえよう」(『日本人のための宗教原論』)と高く評価した。『豊饒の海』は『春の雪』『奔馬』『暁の寺』『天人五衰』からなっているが、小室はそのストーリー全般について素描している。

 

「第一巻の松枝清顕にはじまり、ニ、三巻でそれぞれ飯沼勲、月光姫(ジン・ジャン)に転生した主人公は、次いで安永透へ生まれ変わってゆく。それを副主人公である本多繁邦が観察している。というのがこの小説の構成で、三島は初めの三部を輪廻転生物語として設定している」(『同』)としながらも、最終場面でのどんでん返しに注目する。「三回の転生を経て、四人目として登場する透は全く異質の人物として登場するのだ。その輪廻転生の様子を夢で見届けてきた本多は驚愕(きょうがく)し、法相宗の寺・月修寺に、八二歳となった清顕のかつての恋人・綾倉聡子を訪ね」た際に聡子が語った言葉に、小室は唯識の何たるかを看取したのだった。

 聡子はあっけらかんと「松枝清顕さんという方は、お名をきいたこともありません。そんなお方は、もともとあらしゃらなかったのと違いますか?何やら本多さんが、あるように思うてあらしゃって、実ははじめから、どこにもおられなんだ、ということではありませんか?」(『天人五衰』)と言ったのである。

 唯識という思想は「ただ(唯)識によって変じだされた所のもの」であり、一人ひとりの識がものごとをつくりあげるということだ。ということは、個々人の思い込みで世界を解釈してしまうということだ。それでは他者との共通のベースは見つけられない。共に生きるという実感を手にするためには、偏見のない識でなければならない。全てが空であったいうのではなく、識を成り立たせしめている根拠がなければならないが、それもまた実体ではなく、三回の転生を見、四回目で裏切られた本多の識が生みだしたのではないだろうか。

 門跡の聡子の「それも心々(こころごころ)ですさかい」との一言を耳にした後に、広大な南の庭に案内されて、本多は「そのほかには(蝉の声)何一つ音とてなく、寂寞(じゃくまく)を極めている。この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。丹羽は夏の日盛りの碑を浴びてしんとしている」という境地に到達したのだ。

 私はこの部分になると付いていけなくなるが、三島の世界をどこまでもかき分けて進んだ人間は、小室以外には誰もいないような気がしてならない。政治の領域だけにとどまらず、小室は三島由紀夫の全体像に肉薄するために、難解な仏教の唯識思想を掘り下げたのである。