私が会津高校に入った昭和43年当時は「70年安保決戦」が叫ばれ、何か大変なことが起きそうな予感があった。入学後すぐに社会弁論部に入ったが、弁論の練習などはせず、もっぱらマルクスやサルトルなどを話題にしていた。

 関西ブンドの怒涛派に属していたこともあり、「プチブル急進主義者」とレッテルを貼られていた。宇野門下の岩田弘の影響下にあった。

 宇野派でありながらも、岩田は「世界資本主義の経済的危機は―革命的危機にほかならない」という分析をしていた。どちらかというと経済的な側面を強調する議論であった。

 私は右左なく関係なくラディカルな立場に興味があった。理屈はどうあれ、現状を打破する理論さえ手に入れば、そこで燃焼し尽くせばよかったのである。

 

 70年決戦前夜に高校入学

 

 入学早々、新入生を集めて鶴ヶ城の石垣の上で檄を飛ばす先輩もいた。「君たちが高校3年生のときに70年安保だから一大決戦になる」と煽ったのである。

 岩田の著作よりも、政治運動論的には「中核派魂」を掲げて、「沖縄奪還」を叫ぶ中核派に親近感を覚えた。まさしく「攘夷論」そのものであった。このため、高校時代から私は中核派の「前進」を読んでいた。

 中核派の行動主義を評価しつつ、革マルの疎外革命論にも心動かさた。黒田寛一の「疎外された私のこの実存の証を、革命として決意してきた以上、『疎外』は私の外にある単なる概念であることはできない。『疎外』とは私であり、私とは疎外なのである」(『読書のしかた』)との言葉にも心動かされた。

 さらに、高橋和巳は「プロレタリアートは社会の爾余(それ以外)のいっさいの階級を解放せずしては、自己を解放しえない階級である。それゆえに自己のおかれている状態のままであれば、完全な人間の喪失であるより他なく、自己の人間性を回復しようとする以上は、同時に他のいっさいの非人間的状態も変革せねばならないのである」とマルクスの主張を紹介しているが、これに影響されたことも否定できない。

 マルクスの『ヘーゲルの法哲学批判序説』の有名な文章であるが、高橋ならずとも「美しい形而上学であり」という見方は美しいが、それはかなわぬ夢物語であった。

 

 全共闘と三島由紀夫

 

 その一方で日本学生同盟の「日本学生新聞」や日本学生会議の「ジャスコ」などの新民族派の機関紙にも目を通していた。左右の両極に関心を抱いても何の不思議もなかった。それを象徴するのが三島由紀夫と東大全共闘との討論会であった。

 両者はそこで共通のものを見い出したのである。三島が「君らと私は考えていることはほとんど同じだ、ただ違うのは天皇の問題で、諸君がデモをやりながら最後に『天皇陛下万歳』と、天皇の名を掲げてくれるならば自分もその隊列に加わる」と明言したのである。

 ぬくぬくと平和に甘んじているという怒りは、全共闘も三島も一緒であった。松本健一もどこかで行っていたが、三島も全共闘も権力を奪おうというのとは無縁な反政治であった。その部分において三島と東大全共闘は意気投合したのだ。

 私はその狭間にいたので、どちらにもいくことができた。時代的な潮流も無地できない。60年安保闘争におけるブンド(全学連主流派)の敗北を受けて、北一輝や「日本浪漫派」の再評価の動きは新鮮に思えたからである。寺山修司の短歌も胸に響いたのである。

「北一輝その読みさしのページ閉じ一七歳の山河をも閉ず」というのは、危険なものに触れる歓喜を感じた。

 それは権力者に向かられる刃である以上に、反体制運動を自分たちの指導下に置こうとする者たちとの闘いでもあった。

 

 赤軍派のオルグ受ける

 

 私たちの仲間には、広島での日本原水協の大会に参加した帰りの列車で、毛沢東の『実践論と矛盾論』を読んでいたことが咎められ、それで民青のサークルから排除された人間もいた。

 その人間は京都のどこかの学生寮に潜り込んでいたとか言われるが、より過激な主張をするようになった。

 人がまったく変わってしまったのだ。共産主義者同盟赤軍派の活動家か、さもなければそのシンパになっていたのだ。

 これにはビックリしたが、民青から新左翼の移るというのは何も珍しいことではなかった。政治とか社会科学とかに目覚めた若者は、本格的に勉強すれば、1956年以来のスターリン主義への反発とか、牢獄と化したソビエトの実情を知るにつけ、自己変革が迫られるのが普通であったからだ。

 社会弁論部の主導権を握っていた共産主義者同盟旧マル戦派ではなく、赤軍派が前面に出るようになったのは、私は二年生のときになぜか副部長に選ばれたが、三年生になって哲学同好会に加わった。

 こちらもアナーキーではあったが、党派とは一線を画し、ノンセクトラディカルに徹した。社会弁論部にいたということだけで、大学生になってからも公安警察が来たりした。

 私は高校2年だったが、会津で刷られたという「赤軍派への招待」のパンフや、赤軍派のビラを読んだことがある。

 赤軍派は69年9月4日に結成されたばかりにもかかわらず、東北の地にまでオルグが行われていたのである。公然と登場したのは9月5日の全国全共闘大会においてであった。

 そこで赤軍派は戦旗派や叛旗派との内ゲバを引き起こした。それから21、22日の大阪戦争、30日の東京戦争と称して、火炎瓶によるゲリラ闘争を繰り広げた。

そうした情報を私たちに伝えてくれるルートがあったのだ。「東京戦争の勝利に向けて」というビラを私はこの目で見ている。

 福島県立医大には梅内恒夫がおり、福島県内の高校にもその協力者がいたのだ。勉強もしないでわけの分からないことを言っている私たちを、学校当局は「政治活動ではなく非行に過ぎない」と馬鹿にしていた。

 1971年の予備校時代にはデモを取り囲む群衆に紛れ込んでいたら、機動隊に石を投げられて怪我をしたこともあった。フロント(共労党)のデモに加わっていた会津高校の同級生に助けられたが、たまたま新宿ではぐれてしまった。それから彼と顔を合わせることはなかった。

 

 サークルの委員長に就任

 

 どこの党派に属しているわけでもないが、無性に管理教育に腹を立てていた私たちは、高校の封鎖も画策した。それを断念することになったのは、教師から「自殺者が出る」という脅しと、それから過激派のメンバーのSから「これからはスケールが大きい戦いになるから、そんな一揆主義的なことは止めろ」と制止されたからである。

 なぜか私がマイクを持って喋る羽目になり、涙を呑んで断念したことがある。私を見つめる仲間の顔が未だに忘れられない。すでに学園紛争は終わってしまった。にもかかわらず、やるせない怒りがこみあげてならなかったのだ。

 それでもかろうじて高校を卒業することができた。試験もろくに受けないから、卒業しても合格する大学などなかった。一浪して法政の文学部哲学科に入ったが、わけもなく中核派に入ろうと思った。

 それはもっとも戦闘的であり、70年安保闘争を戦い抜いた主力部隊であったからだ。しかし、遅れてきた私は、内ゲバが酷くなったこともあり、中核派の人間から「やめた方がいい」との忠告を受けた。

 中核派と言えば、たまたま中核派の活動家の女子大生と話をする機会があった。私が「中核派が暴動を呼びかけるのは、日本が米国と対等でないから、そうすることで米国に譲歩させるという意味合いもあるんですよね」と言ったら、何日かしてその女子大生は「中核派の幹部クラスの人は頷いていた」と語ってくれた。

 それで法大全共闘の末端のサークル運動を担うことになった。学生会館があったので、そこを拠点にして活動をした。授業は行われるようになっても、試験はいつも阻止されるから、ここでもまた勉強したという実感がない。

 法大の哲学科には哲学会という組織があって、長く民青が握っていた。それで全共闘系が奪還しることになり、新聞学会の法大全共闘の活動家が、私に打診してきた。委員長選挙に出ろというのだ。立候補して当選した。暴力で奪い取ったのではなく、多数決というのは珍しかった。『位相』という雑誌を二回ばかり出したが、恐いもの知らずの私も原稿を執筆している。

 

 第一次第二次法大会戦

 

 内ゲバを目の当たりにしたのは1973年5月13日のことであった。ポカポカした陽気で、哲学会の部屋がある302号室に私はいた。不思議とその日は人が来なかった。隣接する学生ホールで、中核派が「三里塚勝利」とかいう集会を開いていた。

 変な胸騒ぎがするというか、何か様子がおかしいのである。誰だったか、私のところに「革マルが大教室に隠れている。学生会館が襲われるかもしれない」と言ってきた。

 部屋の中を見渡しても、武器になる者はバット一本と、水道橋だったかで500円で買ってきた黒いヘルメットがあるだけ。人数もいない。逃げ出すわけにもいかず、そのままにしていた。

 中核派の部隊が正門から外堀の方に出ようとした瞬間である。大教室に隠れていた全学連行動隊約200名が、中核派の約80名に襲いかかった。三番パイプを振り回し、一瞬埃(ほこり)が舞い上がって、周囲が見えなくなるほどだった。世にいう第一次法大会戦である。

 学生会館が襲われたわけではないので、ホッと胸を撫でおろしたが、外堀通りにでてみると、竹竿が散乱し、中核派の人たちが路上に横たわっていた。救急車が来るのにも時間がかかった。すでに革マルの全学連行動隊は撤収した後に、機動隊がやってきた。

 都職東京東部地区委員長の前迫勝士(まえさこ・かつし)はそのときに死亡した。37歳の若さであった。滅多に聞かない苗字で、ファーストネームも勝士だったので、なぜか忘れられない名前であった。

 翌年6月26日には第二次法大会戦があり、中核と革マルが想像を絶する死闘を法大市ヶ谷チャンパスで繰り広げた。大学構内に泊まり込んでいた中核派20名と、学外から合流した50名。合わせて70名が、同じく潜伏していた革マルの50名を襲撃した。2時間半にわたってのもので、内ゲバ史上最大の激突と言われている。

 主な主戦場は学生会館であったようで、302号室もドアが壊され、あちこちに血痕が残っていた。ビックリしたのは、革マルの人間が1人だったか隠れていたことで、黒ヘル全共闘は、何もせずに学外に追い出したと思う。

 そんなことばかり目にすると、いくらノンセクトラディカルに与したとしても、党派とは距離を置きたくなるのは当然ではないだろうか。私は幸いなことに、鉄パイプで人を叩いたこともないし、叩かれたこともない。

 革共同ということでは中核と革マルとは同根である。奥浩平の『青春の墓標』では、自分が中核派で、彼女が「Y派」(革マル)であったことの悲劇が綴られている。

 あくまでも私は周辺にいただけであったが、まかり間違えば、その狂気に身を投じた可能性があった。しかし、遅れた世代であったからこそ、それをせずに済んだのだと思う。