渡辺京二は失われた日本があったこと、しかもそれが文明と呼ぶべきであり、日本人の連続性を保っている文化とは異なっていることを、僕たちに教えてくれる。
柳田国男はあたりまえの既知に疑問を抱き、そのルーツを探ることで、日本人の琴線に触れようとした。これに対して、渡辺は異国人の他者の目から、日本人のかつての姿や生活上の形を再現しようとした。その手法の違いは異なっていても、僕たちに大事な何かを想起させることでは同じである。
渡辺の『逝きし世の面影』においては、僕の住む会津のことも取り上げられている。イザベラ・バードの『日本奥地紀行』に言及されているからだ。翻訳されているのはあくまでも縮刷版で、東北の部分が随所に省略されていることを知った。編集者であった渡辺は、ありきたりの資料を並べたのではなかったのだ。
渡辺の「日本近代が前代の滅亡の上にうちたてられたのだという事実を鋭く自覚していたのは、むしろ同時代人の異邦人であった」という言葉は衝撃的である。
渡辺は2022年12月25日にこの世を去った。僕が初めて渡辺の著書を手に取ったのは『北一輝』であった。松本健一、滝村隆一とかとは違った北一輝像に心を揺さぶられた。
渡辺がこの本を世に出したのは60代後半のことである。それ以上に馬齢を重ねてしまった僕は噛みしめるように読んでいる。忘れられた日本人の面影を僕なりに思い描くことができるからだ。
