小室直樹という人間は遠回しながらも、自衛隊のクーデターを肯定したのではないか。それは誤った解釈かも知れないが、素直に読めばそう読めてしまうのである。
小室と色摩力夫の『国家権力の解剖軍隊と警察』は危険な書である。クーデターのやり方を教えているのではない。しかし、軍隊にとってクーデターが一つの選択肢であることを、自衛隊員を含めた多くの国民に伝授しているからである。
「序にかえて」の「近代デモクラシー諸国における―軍隊と警察」で書かれていることは、恐ろしく衝撃的な書である。ほとんどの人が通り一遍の読み方しかできないから、そこまで深刻には考えないのである。
小室の論理はあまりにも明確である。「軍隊と警察こそ、近代国家の爪牙(そうが)である」ことを看破する。爪牙とは牙であり。暴力装置であることを意味する。近代国家はこの二つの暴力から成立しているが、軍隊と警察ではその目的が異なるというのだ。その違いが分からないからこそ、今の日本のように、警察の延長として自衛隊を位置づけてしまうのだ。
小室は「軍隊は国家に属し、警察は政府に属する」ことを問題にする。防衛大臣は内閣の一翼を担い、自衛隊の最高責任者は内閣総理大臣であるということと、それは矛盾するように思えるが、それは軍隊の本質を理解していない議論である。
そのことを踏まえて小室は「軍隊は、政府とは一体ではなく、組織として一定の距離をおく。自律的なプロ集団である。国家の要請が政府と矛盾する場合には、政府の命令に服しないこともあり得る」と断じる。
警察は行政機関の政府と一体であるからこそ、自衛隊に対するような「文民統制」を必要としないのである。戦前の日本で騒ぎになった「統帥権(とうすいけん)の独立」とも警察は無縁な組織なのである。
もっと具体的にいうならば、「統帥権の独立」なるものも、天皇に直結しているかいないかではない。「正確には、軍隊が動員された後は、作戦命令は政府の統制を受けない」ということなのである。
2・26事件の青年将校が首都中枢を震撼させ、三島由紀夫が市ヶ谷で自衛隊員に決起を訴えたのは、そのことを熟知していたからなのである。
我が国は最悪の危機に直面した場合には、政府というよりも、国家を守り抜けるかどうかである。そこで自衛隊が真の国軍であるか、腑抜けな米国の傭兵であるかが試されるのではないだろうか。
