グローバリズムに対抗するには、独自の考え方がなくてはならない。単なる謀略論で語るのではなく、もっと深い思想的な視座が求められるのである。
京都学派の高山岩男の『世界史の哲学』では、それが何であるかを明確に述べている。とくに高山が主張しているのは、美一つにしても無自覚な世界一元論から判断してはならないということである。鬱蒼たる樹木がないギリシャにおいては、パルテノンはその景観に完全に調和するが、それは鬱蒼たる樹木が多く、霞や靄の立ち込める日本の土地では、白木づくりに神社建築が崇高な感情を喚起することを指摘している。
しかし、ヘーゲルの研究家であった高山は、風土性にだけ注目したのではなかった。人間の主体的自発性は歴史的であることから、時代性を抜きにしては、物事の本質をつかむことができないことを熟知していた。
「環境と主体との十全なる合一、自然と環境との呼応的合致にも、歴史的変遷は存する。芸術の様式や理想美にも時代性が存するように、文化にも凡て時代性が存している。そのときは時代の秘かな要求と地理的環境の呼応的合致として、各時代には『神に直接せる』絶対的なものが成立するのである。永遠の価値を有するものは時代性を離れたところにあるのではない。時代性の中に却って永遠の今に接する絶対的なものがあるのである。絶対的な理想的完成は地域性や民族性を離れた知的普遍性に存するものではない。各地域の特殊な民族文化の中に、却って絶対的な理想的感性が存するのである」
日本的な特殊性を個性として見ることができない、戦後の進歩的文化人が世に跳梁跋扈する以前の昭和17年の時点で、反グローバリズムの立場から持論を述べていたのである。
そして、高山はヨーロッパの近代が破綻し「自由競争は必然的に弱肉強食による不平等の権力的事実をもたらした」ことを問題視した。そこで東洋や日本の使命として、欧米的な価値観を突き抜ける「道義的生命の力を発揚し、以て新しい生命の世界を建設する」というプロパガンダを掲げたのである。
