マルクスをまともに読む必要があるかないかは、そのこと自体問題ではあるが、僕などが初期マルクスに感化されたのは、今の中国や北朝鮮のような体制と正反対のユートピアが思い描かれていたからである。

 マルクスが『ヘーゲル法哲学批判序説』で述べたのは、ヘーゲルの弁証法に立脚したラディカルな思想であった。現実がどうであるかよりも、そのユートピアに僕は共感したのだ。

 僕なりに解釈すると「プロレタリアートとは日々絶対無に突き落とされるところの存在であり、普遍的な労苦を背負うがゆえに、自らの解放はあらゆるの階級の解放を通じてしか実現できない」ということである。「人間の完全な喪失であり、それゆえにただ人間の完全な再獲得によってのみ自分自身を獲得できる」(『ユダヤ人問題によせて・ヘーゲル法哲学批判序説』城塚登訳)という考え方なのである。

 そこでは「敵を殺せ」という政治の論理は働かない。憎悪の哲学ではない。マルクスのヒューマニズムの一欠けらもないのが、レーニンやスターリンの影響を受けた中国共産党なのである。ローザ・ルクセンブルクやシモーヌ・ヴェイユが絶望した地点から僕たちは出発するしかないのだ。

 僕が今保守を自称するのは、スターリン主義の独裁国家に、日本が呑み込まれつつからだ。日本国民は自由と民主主義を守るために結束すべきなのである。襲い掛かってくる者たちを払いのけなければ、我が国はウイグルやチベットの人たちと同じ運命を辿ることになるだろう。中国共産党を甘くみてはならないのである。