目前に迫った我が国の危機を乗り切るためにも、ジャーナリズム的な情勢論に与するつもりはない。それ以上に文明史的な問題があると思うからだ。大東亜戦争の思想的プロパガンダに「近代の超克」という考え方がある。現在でも通用するレベルの高い議論が行われていたのである。
 それをリードしたのが「文学界」グループであり、日本ロマン派であり、京都学派と呼ばれた哲学者たちであった。左翼に属する竹内好や廣松渉がその意義について書いており、今の時代だからこそ、なおさら再度話題にすべき内容を含んでいるのだ。
 竹内好の「近代の超克」を読み返すことで、欧米に対する私たちの立場を、再構築すべきではないだろうか。米国によって「大東亜戦争」が「太平洋戦争」と変えられた時点で、「近代の超克」という言葉は、無視されるようになってしまったが、それを抜きにしては、先の戦争を語ることはできないからである。
 竹内がいうように、大東亜戦争の主体は日清、日露戦争とは違って「皇祖皇宗の神霊」であり、「祖宗の偉業を恢弘」するための戦争と位置付けたのである。総力戦と永久戦争、さらには「肇国」の理想が一体となったのであり、日本という民族共同体を防衛するために、多くの日本国民は戦場に赴いたのである。
 ドイツのように、ナチスの思想に突き動かされたわけではないのである。その三つを見事に説明したのが京都学派であった、その点を竹内は重視したのである。彼らは疎外論も先取りしていたし、日本独自の文明論樹立しようとしていた。
 京都学派の哲学者たちは「ヨーロッパに対抗するという日本乃至東亜の意識には、実は同時に日本自体の内部に於て近世的な日本、つまり明治大正の日本を否定しようという意識が一緒になっているね」という立場が示され、「モラリッシュエネルギー」の必要性が説かれ、「新たなる世界的日本文化の創造」のきっかけにしようとした。
 竹内は大陸での無謀な戦争を批判しながらも、植民地の解放を寄与した欧米との捨て身の戦いに関しては、別と考えて評価したのである。
 それだけに、欧米の思想と真っ向から対決した京都学派からは、学ぶべき点があることを認めたのである。現在の欧米の没落は目に余るものがある。それを突破するだけの、新たな近代の超克論が求められているのではないだろうか。