総務省の旧郵政省系の小西ひろゆき氏は、官僚こそが日本を動かすべきだと確信しているようだ。だからこそ、エリート官僚が書いた行政文書は絶対であり、そこに口を差しはさむ政治家は排除したいのである。あまりにもおごり高ぶってはいないだろうか。しかも、それが野党政治家だというのだから、病膏肓に入るということだ。そこまで野党は人材が枯渇しているのだ。
選挙で選ばれた政治家よりも、高級公務員の試験を通った官僚の方が偉いというのは、とんでもないことである。政治家は選挙の洗礼を受けなくてはならないが、それが官僚にはなく、身分も安定しているからだ。
さらに、選挙制度の改悪によって、政治家の頭にあるのは、どうすれば当選できるかであり、国会議員の場合にも、国家国民のことが二の次三の次になってしまう。代議士が町内会の集まりにまで顔を出すというのは、あまりにも異常である。政治家に政策を学ぶ時間もないわけだから、そうなれば当然、政治は官僚の思いのままになってしまう。中央陳情というものも、ほとんどが有力官庁の官僚に頭を下げるというのが現実なのである。
官僚主義ということになれば、やはりマックス・ウエーバーであるが、尾高邦雄が『世界の名著ウエーバー』の解説文「マックス・ウェーバー」を書いている。そこで尾高は、ウエーバーが官僚主義ついてどう述べているかを、かいつまんで紹介している。官僚制そのものは、民主主義と資本主義経済の成立にとって、重要な前提になるものではあるが、それに伴うマイナス面もあり、それが徐々に深刻化するというのである。
「形式的な法にのみ準拠する官僚制的行政は、しばしば問題の実質的な合理的な解決を無視することがある。また、それは悪平等で画一的な行政措置を結果しやすい。さらに、官僚制組織の特質である硬直した職務分担は、セクショナリズムをともないやすく、手続きの合法性や事柄の外面的整合性に固執する官僚の職務態度は、しばしば杓子定規や繁文縟礼(はんぶんじゅくれい・こまごましい規則や礼式にこだわること)を結果する。そして、これらのことは、元来は効率的であるべきはずのビューロクラシ―的行政の、思いがけぬ非効率を生じることになる」
総務省内部の旧郵政派と旧自治省派の主導権争いともみられる今回の小西文書も、セクショナズムの弊害であることは、誰の目にも明らかではないだろうか。そして、忘れてはならないのは、肥大化した官僚組織は、大幅な権限を手にすることだ。だからこそ、その既得権益を守るのに必死なのである。
旧郵政省の利権は、田中派が独り占めにしてきたが、ネット時代の到来によって、自由に動画を配信できるようになってからは、マスコミにとっては既得権益を守る最後の砦である。その一角が崩れ、限られたテレビ局にしか与えられない電波が、自由競争にでもなれば、旧郵政省の居場所がなくなる。それだけに必死なのである。
しかし、権限の集中というのは、非民主的な専制的な性格を持つことであり、これをどうチェックするかが、政治の大きな課題となっているのである。それは社会主義においても変わらない。ソビエトや現在の中国がそうであるように、「プロレタリアート独裁」は名ばかりであり、本質は官僚の独裁なのである。
小西文書によって、私たちは、官僚の横暴を確認することになったのは、ある意味では好機到来であった。民主政治において、官僚組織はどうあるべきか、そのマイナス面を取り除く議論を開始すべきときなのである。
