宮沢賢治の作品に『グラスコーブドリの伝記』というのがありますが、そこに出てくるサンムトリ火山は、磐梯山の噴火が参考になっているといわれます。岩手県立大学で地理を教えていた米地文夫が指摘したもので、小桧山六郎氏が『新磐梯紀行 ルポルタージュ・明治21年のバンダイ噴火』で、そのことについて触れています。その本自体が田中智学の『磐梯紀行』をベースにして書かれていることもあり、わざわざ言及したのでした。

 田中智学は大正3年に「純粋日蓮主義信奉する在家仏教教団」の国柱会を結成していますが、宗教法人国柱会のホームページによると、賢治が国柱会に入会したのは大正9年で、それ以前に田中智学の講演を鶯谷の国柱会館で聞いて、心揺さぶられたのでした。そして、賢治は大正10年1月、父母の改宗をできなかったのに落胆し、突如上京し、国柱会の街頭布教の先頭に立ったのです。

 しかし、賢治は妹のトシの病気が悪化したために帰郷。それから花巻農学校の教師をしながら、自らの芸術の根拠を『法華経』に求め、退職後もその姿勢は一貫して変わりませんでした。それだけに、賢治が田中の『磐梯紀行』を読んでいたことはほぼ確実のようです。

 米地がなぜそのように主張したかというと、『グラスコーブドリの伝記』には、磐梯山を思わせるような描写があるからです。第一は「サンムトリという南の方の海岸にある火山が」と書かれていますが、南の方の海というのは「猪苗代湖」ではないかと想像できます。第二に「今度爆発すれば、たぶん山は三分の一、北側をはねとばして、牛やテーブルぐらいの岩は熱い灰やガスといっしょに、どしどしサンムトリ市におちてくる」というのは、磐梯山噴火で、大磐梯、小磐梯、櫛が峯の三つの峰のうちの小磐梯が北側に崩れたことと符合します。

 第三は「俄かにサンムトリの左の裾(すそ)がぐらぐらとゆれ真っ黒なけむりがぱっと立ったとおもうとまっすぐにのぼって行って、おかしなきのこの形になり、その足もとから黄金色の溶岩が流れ出して、見るまにずうっと扇形にひろがりながら海へはいりました。と思うと地面ははげしくぐらぐらゆれ、百合の花もいちめんゆれ、それからごうっというような大きな音が、みんなを倒すくらい強くやってきました」とあり、磐梯山噴火のときとほぼ同じです。

 第四は「サンムトリ火山は古い噴火口の外輪山が、海の方へ向いて欠けた所で、その小屋(観測機械のある場所)の窓からながめますと、海は青や灰いろの幾つものしまになって見え、その中を汽船は黒いけむりを吐き、銀いろの水脈みおを引いていくつもすべっているのでした」といった言い方は、磐梯山の旧火口である沼ノ平を取り巻く外輪山の南側が(猪苗代湖側)が欠けて、大磐梯山と赤埴山の暗部となっていることと一致する、といったことがあるからです。

『グラスコーブドリの伝記』のストーリーは、ブドリが10歳のときに冷害になり、父が森に出かけたまま帰っ来ず、母も後を追って行方知れなくなります。妹も知らぬ男に連れていかれます。それとは別な男が屋tぅて来て家がテグス工場になりますが、近くで噴火が起きたので、ブドリを置いて逃げてしまいます。

 ブドリも家を離れ、オリザ(米)を育てる赤髭の百姓の世話になリます。そこで農作業を手伝うとともに、学問にも開眼します。一時はブドリのおかげで豊作になりましたが、今度は干ばつで不作になります。赤髭からもらった金で、ブドリが読んだ本の著者に会いにゆきます。そして、新設された火山局に職を得ます。サンムトリ火山の被害を抑えるという大金星を挙げるのです。サントムリ火山を表現するにあたって、磐梯山の噴火の記録が参考にされたのです。その一方では勘違いをした村の人たちに殴られ、病院に運ばれたことが記事になり、妹との再会を果たすことができました。両親の墓にもお参りすることができました。

 それで終わればハッピーエンドですが、そうではありません。冷害が来る前に最善を尽くそうと、火山を噴火させて炭酸ガスの量を増やして、温暖化させる案を思いつき、カルボナード火山に一人だけ島に残り、自分の命を捧げたのでした。ブドリは27歳になっていました。この結果、「イーハトーヴの人たちは、青ぞらが緑いろに濁り、日や月があかがねいろになったのを見ました。けれどもそれから三四日たちますと、気候はぐんぐん暖かくなってきて、その秋はほぼ普通の作柄になりました。そしてちょうど、このお話のはじまりのようになるはずの、たくさんのブドリのおとうさんやおかあさんは、たくさんのブドリやネリといっしょに、その冬を暖かいたべものと、明るいたきぎで楽しく暮らすことができたのでした」

『法華経』によって到達した賢治の利他の精神を作品化するにあたって、単なるファンタジーではなく、科学的な見地から、細部にわたって組み立てていくという手法は、賢治ならではの書き方であり、師である田中智学の『磐梯紀行』を何度も何度も読み返しているのです。