『ちくま文学全集 中野重治』に収録されていた「評論家の文体」を読んでいて、さもありなんと思った。中野の思想的な主張など、僕にはピンこないし、共感する部分は少ない。しかし、日本の文学者としての矜持には、教えられるところがある。

 僕も愛読している清水幾太郎の『私の読書と人生』について、中野は苦言を呈したのである。多くの人が有難がっている清水の文章の特徴を、何と俎上に載せたのだ。

 中野は、清水が論理的な書き方をしていることは評価する。しかし、その反面、清水の文体の弱点についても、「愛と憎悪とにおける表現の弱さということだと思う」とズバリ言い切った。そして、清水の『心理学読本』を引き合いに出し、具体的な例まで挙げたのである。

「『約束された経済的条件は、私にとって抗しがたい魅力であった』というときの『経済的条件』という言葉などがそれになる。つまりここでは、『報酬上条件』とか『金銭上条件』とかいったほうがいっそう穏当だっただろうと思う。」

 その一方で中野は「清水が、その論理の明らかさをますます充実させて、文学的にいえば、愛と憎悪との藝術的表現にまで行くのを切に望む」と希望を述べたのである。

 今僕が読んでみると、中野は文体の問題だけではなく、ある意味では、清水の思想の問題まで射程に入れて論じているような気がしてならない。まだその段階では、清水は転向はしていなかったものの、すでにそこに向かう素地があることを見抜いていたのではないだろうか。

 さらりとした書き方に徹する清水は、そこに己の感情を反映させるのを嫌ったのだと思う。社会学的な表現に徹することで、己の肉声をねじ伏せたのである。感情移入をためらったのではないだろうか。冷めていたからこそ、清水は晩年に転向をして、保守派の論客に脱皮できたのである。

「おまえは歌うな/おまえは空か儘の花やとんぼの羽根を歌うな/風のささやきや女の髪の毛の匂いを歌うな」という詩をつくった中野は、文学者特有の肉声にこだわったのである。革命的ロマンチズムにとっては、言葉は「愛と憎悪」の結晶化でなければならず、清水とは対極に位置するのである。