共産党の昔のイメージは今と違っていた。清廉潔白であり、正義のために戦っていると思われた時代があった。とくに、敗戦後に刑務所から出てきた徳田球一、志賀義雄らの幹部は、転向せずに信念を貫いたというので、まるで英雄扱いであった。東大の新人会に集まった若者たちも、セツルメント運動として、労働者や貧困の地に入っていって、そこで知り合った女性と結婚した例が多かった。間違っても、貧困ビジネスで私腹を肥やすことなど、考えられもしなかった。権力に牙をむくというのは、潔癖さの証でもあった。保田與重郎の『日本の文学史』に書かれた、わずか六行の文章においても、昭和初期に共産主義の運動に入っていった者たちについて言及している。

「文学界の一般的流行では、プロレタリア文学とそのリアリズムが漸(ようや)く圧倒的だった。その理論は粗雑で、政治局の決定にそって、文学作者はただ従順であればよいとされた。政治の権力の決定した方針に、文学は無条件に従ふものであるという形の文士の考え方は、わが國では、封建時代にも、明治大正時代にもなかった。昭和初年プロレタリア文学に於て、日本の文壇に出現したその考え方は、一時代風靡したのである。しかし当時の学生たちで左翼に加ったものは、多く白樺流の洗礼を受けていた」

 保田は、共産主義者となった者たちを批判し、断罪しているわけではない。世に汚されることのない純粋性を評価したのである。保田自身が思想的には転向者であり、太宰治、亀井勝一郎、林房雄らにいたっては、共産党員か、その同伴者であったからだ。マルクス主義の文学運動が挫折し、そこで傷ついた者たちが、コギトグループを結成し、それが「日本浪漫派」の運動と結びついたのである。人道主義の観点から共産党に参加したり、協力したのであって、あくまでも純粋性に立脚した行動であったからだ。

 しかし、現在の左翼の運動は、主義主張どころか、純粋性も失ってしまい、金に目がくらむ集団に成り果ててしまった。これでは批判されて当然であり、もはや存在意義などこにもないのである。権力を思いのままに操ることを至上命題とすれば、それは典型的なスターリン主義である。