今ほど親日派の政治家が待望されるときはない。このことを声高に訴えたのだ林房雄である。『大東亜戦争肯定論』が世に出たのが昭和39年、『続大東亜戦争肯定論』は昭和40年であった。この出版が反日史観から日本人が脱却する一つのきっかけとなったが、進歩派からの攻撃は熾烈なものがあった。しかし、今になって考えれば、至極あたりまえのことを書いただけなのである。林は当時の日本をリアルに分析している。親日派が弱くて、外国勢力に対抗できないことを嘆いたのだ。交戦権なき半人前の国家に成り下がったことに、憤りを覚えたのである。

「現在の日本の思想界と政界は四分五裂の状態だ。最も強力なのは親米派であるが、親ソ派もまた多く、新中共派も最近急速に勢力を増しはじめた。非武装中立派という空想派もあり、世界連邦派という理想派もあり、最も微力なのが親日派であるかのような奇観を呈している」

 それが今日ではどうであろうか。親米派が徐々に後退し、ソ連派もかつてのようではない。俄然勢いがあるのが中共派なのである。さらに、忘れてはならないのは、昭和40年代までは、祖国のために銃をとって戦った日本人がまだいたことだ。口には出さなくても、国家への忠誠心は維持されていた。ところが戦後の教育を受けた者たちは、外国勢力の手先になっても、何の良心に呵責を感じることがないのである。

 林は「親米、親ソ、新中共派であることは各人の自由であるとはいえ、その前にまず親日派であることが日本人の資格であることを忘れては、たいへんなことになる」と警告を発した。しかし、歴史は林が望んだようには進まなかった。戦争中の「聖戦意識」が、戦後は一転して「自虐意識」となり、そこから抜け出せない日本人が未だにいるのである。

 そんな林が目をかけたのは、西尾幹二や江藤淳であった。自分の息子の世代が、ようやく自主独立の思想を語り出したことを評価したのだ。親日派の勢力は、その上に打ち固められなければならないからである。林は「日本の息子たちは『歴史の呼び声』を待っている。正確に勉強し、健康に成長しつつ、静かに待っている。息子たちは決して日本民族の歴史と父祖の理想と苦闘とをうらぎらないであろう」とエールを送ったのである。

 残念ながら、私たちは、林の期待に応えられないでいる。西尾や江藤の孫の世代になっても、日本の歴史を取り戻せず、日本民族としてのアイデンティティーを回復できないでいるからだ。もはや戦後ではなく、休養静観すべき時代ではないのだ。国家として身構えなければ、中共の属国になるしかないのである。三代かかろうとも、親日派が力を持たなければ、我が国は滅亡するしかないのである。もはや後がないことを、私たちは自覚すべきなのである。気軽に中公文庫で読めるようになったので、最近は何度も読み返している。