当たり前の生活の繰り返しを、人は当然のように思っているが、本当は危険な綱渡りをしているのだ。それを教えてくれるのが、庄野潤三の『プールサイド小景』である。突然ある日、織物会社の課長代理をしていた青木弘男は会社を首になった。金を使いこんだのである。接待以外の社用名目で飲み食いをして、それが発覚したのだ。返済すれば問題にならないと思うが、返さなくてよい代わりに、懲戒免職になったのである。

 父親が家に居るので、子供たちは突然の「休暇」を歓迎したが、夫婦の間には隙間風が吹いた。プールで水泳の練習をする子供二人のところに行き、自分も泳いでいる夫を見ながら、妻の目には、見えなかったものが見えてきたのである。

 夫は妻に向かって、自分が頻繁に通っていたバアの話をした。姉妹でやっていて、その姉の方に惹かれた。「フランス映画の女優で、現世的な容貌に彼岸的な空気を濃く漂わせているM…に似ていると思った」ので、アメリカの有名な選手の出る国際水上競技試合の切符を買って渡したこともあった。そのとき一回きりのデートをした。彼女は幼年時代にハルビンで父と過ごしたことを、しんみりした口調で語ってくれ、青木の肩に頬を寄せてきた。あくまでもそれきりで、それからは相手にしてもらえなかった。

 さらには、会社勤めがどんなに辛いかも。「誰もいない朝、僕は椅子や帽子かけやそこにぶら下がっているハンガーを見ていると、何となく胸の中がいっぱいになってしまうことがあった。それらは、ここに働いている人間の表象で、あまりにも多くのことを僕に物語るからだ」。

 眠れなくてじっと考え込んでいる夫に向かって、妻は眠れるおまじないをする。「自分のまつ毛のまたたきで相手のまつ毛を持ち上げ、ゆさぶるのだ。それは不思議な感触だ。たとえば二羽の小鳥がせっせとおしゃべりに余念がないという感じであったり、線香花火の終わり近く火の玉から間を置いて飛び散る細かい模様の花火にも似ている。暗い夜の中で、黙って彼女は睫のまばたきを続ける。それは、なぐさめるように、鎮めるように、また不意に問うように、咎めるように動くのだ」。お互いの信頼を回復することは難しくても、人間としての淋しさに耐える者同士の、つつましき生の共感を確認し合ったのだ。

 十日間が過ぎてから、人目を気にして、青木は会社勤めをしていたときと同じような生活を始める。もはや日常性の安定した基盤はないが、そうせずにはいられないからだ。妻には「雑踏の中にまぎれて、知った人に出会うことを恐れながら、おぼつかない足取りで歩いている夫の悩ましい気持ちが」伝わってくる。そして、夫が無事帰ってきてくれるのを願うのである。

 大部分の人間は、夫婦の間でも、そんな会話をしなくても済む人生を送っている。しかし、一歩間違えば、日常性の裂け目に転落する危機に耐えず直面しているのであり、本人が気づかないだけなのである。