古い雑誌を引っ張り出してみると、貴重な文章を読み飛ばしていたことに気づく場合がある。「国文学解釈と鑑賞」の1971年12月1日号に掲載された、半沢弘の「ナショナリズムと維新思想」がそうである。半沢は、幕末期の攘夷論について、当時の国際状況からすればやむを得ないとの見方をした。その一方で会津や長州が激突したのは、お互いにネーションを構想するのではなく、藩レベルの考え方から脱却できなかったためで「ナショナルな関心の欠如のいたすわざとより言いようがない」と断じたのである。

 私たち会津人にとっても、もっとも重要な出来事であった、松平容保公の京都守護職就任に関しても、ナショナルな視点がなく、単なる損得勘定からの反対であったり、「徳川宗家と存亡をともにすべしとの家訓があり、朝廷からも、数代にわたり降恩に浴していると説かれると、では、君臣もろともに京師の血を死に場所としよう」と一決するように、日本的心情が優先された。この点を半沢は問題視したのだった。

 そして、水戸の支藩笠間藩士であった加藤有隣の行動に注目したのである。加藤は格別の要職にあったわけではなかったが、学問に秀でていたために、長州の重役周布正之介から客人として招かれ、色々と意見を具申する立場にあった。京都守護職で藩論が分裂している会津に乗り込み、その就任を思いとどまるように働きかけた。会津がふさわしいかどうかではなく、ナショナルとして考えれば、誤解を招くことになるのを危惧したのである。その点に触れた日記を加藤は残しているが、半沢はかいつまんで要約している。

「会津藩のような親藩一つが独占することは必ず外様をはじめ他藩の恨みを買うこととなり、騒乱の元となるから、就任を思いとどまり、守護職は、十万石以上の大名三家づつが交代にあたるのが妥当であり、また、宮廷の禁衛兵も各藩から選抜してこれに当たるべきで、特権的地位をもうけるべきでないことを切言するにあった」

 加藤は結末を予測していたから、旧知の間柄であった会津に忠告したのである。だが、その進言は採用されず、文久三年八月の政変がおこり、禁門の変となったのである。加藤はその政変に際して、長州が京都の周辺に踏みとどまるべきことも説いた。戦争準備に入る愚かさを訴えたのである。真木和泉らに罵倒されたが、国内が分裂することを恐れ、会津と長州が戦うのを阻止しようとしたのだ。

 半沢は、藩のエゴイズムに毒されなかった加藤を高く評価し、「ネーションとして差向うべき方向はいずれにあるかを適確に指摘し得ているのは一驚に値しよう」と書いたのである。

 現代にあっては、あたりまえに国家は存在すると思っている人が多いが、幕末期には、まだ実感されていなかったのである。ネーションを構想できなかった悲劇に言及した半沢の主張は、私なども見逃してきた視点なのである。会津の私たちとしても、無視するわけにはいかないのである。