僕がブログやフェスブックに文章をアップするのは、カードを活用する人たちと同じく、断片的なメモを手もとに保存して置きたいからだ。それを部門ごとに区分けするのは面倒くさいし、かえってばらばらのままの方がよい。最初から想定された文脈の中に組み入れてしまうと、新たな発見はないからである。歩きながら考えるという言葉があるように、文字をキーボードで打ちながら、何かが見えてきた方が、書き手としては面白いのであり、試行錯誤が楽しいのである。カオスの中に身を置くことで、新たな第二、第三の文脈に気づく場合もあると思うからだ。
ネットで他者に対して書くという行為をしていながら、その一方で、自分なりの宇宙を広げたいのである。そのための種子として、どんどん情報をインプットするのである。整理整頓は後回しだ。まずはどんどん貯め込むのだ。書き留めて置いたのを読み返して、ピンとこないものは削除すればいいのだ。たった一つの文字が、ワンフレーズが無限に広がる可能性を秘めており、それを大切にするのである。
書くためのヒントというのも、文字化されて、自らに現前化されなければ始まらない。頭で考えても、それには限界があるからだ。通りすがりの旅人よりは、足を止めて、現地の人と語らえば、また違った感想を持つにいたる。自己を対象化する表現の行為で、自分が何を考えているかが明らかになるのだ。さらに、本を読むにしても、ただ漠然と活字を追っているのでは、アウトプットには結びつかない。メモ程度でもいいから、感想を含めて活字化することで、著者に寄り添うことができ、結果的には、自分のものに消化されるのである。
僕が日々パソコンに向かうのは、頼まれた仕事をこなすためでもあるが、それ以上に、自分なりの宇宙のためなのである。断片的なメモは、それ自体でも光り輝いている。それをつなぎ合わせて、一つの書物にするにあたっては、何方面からも眺められるような多重性が求められる。それがクリエイティブな価値を高めることになるのだ。通り一遍の紋切り型であってはならないのだ。本を片っ端から読みながら、そのなかで解体と創造を繰り返す、そのプロセスを絶えず繰り返すのがクリエーターなのだと思う。