八十六年前の今日、栗原安秀中尉を始めとした青年将校ら十五人が処刑された。そこに会津人渋川善助も含まれていた。澤地久枝は『妻たちの二・二六事件』において、渋川やその妻絹江さんについても書いている。前年に渋川は中野刑務所を出たばかりで、実際にはその事件とまったく関係ないにもかかわらず、国家権力は叛乱・謀議参与の罪をでっちあげ、それで死刑にしたのである。唯一関与したとすれば、前日に妻の絹子さんと一緒に、湯河原に滞在していた牧野伸顕の動静を探っただけであった。
北一輝や西田税の配下として、渋川が活動していたことが目の上のたん瘤であったからだろう。青年将校たちのもとに身を投じたのは、敗北が決定的となった二月二十八日になってからであった。渋川は一人も殺めたわけではなかったのだ。
澤地は渋川の経歴に関して「会津若松の海陸物産商に生まれ、陸士予科卒業に恩賜のの銀時計を受けた渋川は、教育上の問題で上官と衝突し、陸士卒業を目前に退校させられた。期数は安藤輝三の一期後輩にあたる。明治大学法科卒業後、民間右翼団体に関係、救国右翼団体に関係、救国埼玉挺身隊事件では、黒幕として取調べを受けた。昭和十年には、ある襲撃事件に渋川の拳銃が利用され、起訴処分を受けている」と記した。
絹子さんは、夫の異形の死の後に、会津若松市の渋川家へ身を寄せた。頭山満もわざわざそこを訪ねて、絹子さんを慰めたのである。最終的には再婚することになったとはいえ、渋川の妻として生きた時間はあまりにも長かったのである。
僕は絹子さんがまた健在でだった頃に会津に戻ってきた。取材しようと考えたこともあったが、『妻たちの二・二六事件』で全て言い尽くされているように思って断念した経過がある。
澤地の二人に対する同情の念は「二人の結婚については、なにも資料はないが、こういう経歴をもち、三十二歳で銃殺された男の半生は変転きわまりなく、渋川の遺書の通り、常ならぬ結婚生活であったと想像される。同志将校の結婚写真に写っている渋川夫人は、黒瞳の大きい豊満な顔立ちである」との文章に込められており、同じ会津人として涙を禁じえないのである。
