一度でもマルクス主義者であったことはなかったが、マルクスの哲学に対しては未だに僕は畏敬の念を抱いている。資本論もまともに読みこなせなくても、マルクスの『経済学・哲学草稿』(城塚登・田中吉六訳)だけは、何度も読み返しているからだ。疎外革命論に与するつもりはないが、人間の存在は、孤立したものではなく、自然を基盤にしつつ、類的な存在として、生まれかつ死ぬというのは、大筋において間違ってはいない。マルクスは個人と社会とを対立関係では捉えていなかったからである。
「個人は社会的存在である。だから彼の生命の発現は―たとえそれが共同体的な、すなわち個人とともに同時に遂行された生命の発現という直接的形態で現れないとしても―社会的生命の発現であり、確認なのである。たとえ個人的生活の現存様式が、類的生活の多分に特殊な様式であったり多分に普遍的な様式であったりするーそしてこのことは必然的なものであるが―としても、あるいは多分に特殊な、また多分に普遍的な個人的生活であるとしても、人間の個人的生活と類的生活とは、別個なものではない」
ここで重要なのは、マルクスが「彼がどれほど特殊な個人であるにせよ」と前置きを述べながら、「同じ程度にまた彼は思惟され甘受された社会そのものの総体性、観念的総体性、主観的な現存であり、同様にまた現実においても、かれは社会的現存の直感や現実的享受として、ならびに人間的な生命の発現の総体として現存するのである」と断言している点である。存在と思惟は一応区別されてはいるが、人間の存在は「相互の統一のなかにある」と書いている。しかも、そこで大事であるのは、マルクスが感性的な部分を含めていることである。
「人間は彼の全面的な本質を、全面的な仕方で、したがって一個の全体的人間として自分のものとする。世界にたいする人間的諸関係のどれもみな、すなわち、見る、聞く、嗅ぐ、味わう、感ずる、思惟する、直感する感じとる、意欲する、活動する、愛すること、要するに人間の個性のすべての諸器官は、その形態の上で直接に共同体的諸器官として存在する諸器官と同様に、それらの対象的な態度において、あるいは対象にたいするそれらの態度において、対象[をわがものとする]獲得なのである。人間的現実性の獲得、対象にたいする諸器官の態度は、人間的現実性の確証行為である。すなわち、人間的能動性と人間的受苦的苦悩とである。なぜなら、受動的苦悩は、人間的に解すれば、人間の一つの享受だからである」
マルクスからすれば、人間は対象を通して自らを明らかにする存在なのである。本来であれば、全面的に人間が解放されれば、その段階で「対象が人間にとって人間的な対象あるいは対象的な人間となる場合にだけ、人間は彼の対象のなかで自己を失うことがない。[ところで]このことはただ、社会が個の対象のなかで人間のための存在として生成するのと同様に、対象が人間にとって社会的な対象として生成し、また人間自身が自分にとって社会的な存在として生成することによってのみ可能である」との結論に達する。
生産ということが考えれば、対象に働きかけることでもって、自らの存在を確認し、全体的な存在の回復を目指すのが目標となるのである。生産物が生産者と疎遠な、無関係なものとなることを問題視した。それを阻んでいるものが私有財産であるというのは、疎外革命論の最終的な到達点なのである。
「だから人間は、たんに思惟のなかでばかりではなく、すべての感覚をもって、対象的世界において肯定されるのである」との結論に達するのだ。感性的な感覚が社会的人間の諸感覚になることで「音楽的な耳が、形態の美にたいする目が、要するに、人間的な享受する能力のある諸感覚が、すなわち人間的本質諸力として確証される諸感覚が、はじめて完成されたり、はじめて生み出されたりするのである」
疎外ということを問題になるのは、人間は自然を離れては存在しないし、自然もまた人間を離れては存在せず、だからこそ、受苦的な存在としての人間が宿命を背負い、それでもって全面的な感性の解放へと結び付けようとするのがマルクスなのである。疎外に関して理解するには全体の文脈を頭に入れなければ、一面的な歪曲された解釈になってしまう。その困難さを突破するためには、マルクスの文章を丹念に読むしかなく、ヘーゲルの『精神現象学』を無視することはできないのである。
受苦的存在としての人間は、自然から切り離されながら、それでいて自然を必要とし、同時に必要とされるというアポリアに直面することになる。私有財産を廃止することを過大に考えたのは、ヨーロッパの資本主義の勃興期に立ち会ったマルクスの限界ではないだろうか。ただし、疎外された人間がどのようにして自らを回復すればよいかについては、未だに我々は答えを見いだせないままである。それだけに、マルクスにとっての「永遠の今」の飽くなき渇望は、類的存在としての人間に背負わされた大きな目標であることは否めない。レーニンやスターリン、さらに毛沢東は、そうした課題を解決する手立てを示すことなく、言論を弾圧し、収容所に反対派をぶち込むだけの全体主義国家につくってしまったのである。まさしく全面的な感性の解放とは逆行する者たちとして、マルクスによれば、断罪されるべき立場なのである。