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 戦後の日本人は日本国憲法という「アイデアリズムの母」と、日米安保という「リアリズム」の庇護の下で、曲がりなりにも安寧と繁栄を享受することができた。しかし、20世紀後半から始まった共産主義体制の崩壊とイデオロギー対立の霧散、資本主義の変質、そして21世紀に入っての、複雑な民族・宗教抗争とパクス・アメリカーナの終焉といった激変の中で、もはやお花畑的なアイデアリズムとアメリカ任せの安全保障では日本は立ちいかなくなる。そこで今こそ見直されるべきは永井陽之助の思想ではないかと思う。

 とくに、彼が昭和60年に東京工業大学で行った「20世紀と共に生きて」と題する最終講義は、多くの示唆を与えてくれる。

 

 「文明や道義の敗北論」へ違和感

 

 永井の戦後体制についての見方は屈折していた。東京大学法学部に入った彼は、当時の思想界をリードしていたキラ星のごとき教授陣に対して、違和感を抱き、それまでの「反動的な考え方」を捨てきれなかったという。日本が敗れたことで、外部の力で自分たちの時代が到来したに過ぎないのに、勘違いをしている「進歩的文化人」の陣営に与みしたくなかったのである。

 永井は憲法の宮沢俊義、国際法の横田喜三郎、民法の我妻栄、川島武宜、政治学の堀豊彦、政治学史の南原繁、日本政治史および西洋政治史の岡義武、東洋政治思想史の丸山眞男、行政学の辻清明、社会思想史の大河内一男、米国憲法史の高木八尺の名前を挙げているが、いずれも名だたる「進歩文化人」であった。

 今になれば過去の亡霊と化した感がある彼らは、その当時は臆面もなく「日本の悪」を暴き立てていた。南原繁にいたっては「今次対戦は、民主主義対ファシズムの戦いであって、わが国は文明と理性にやぶれたのだ」と講義で語り、それが当然視されていた。

 だが、永井は違っていた。戦争の勝ち負けは、力が強いか弱いかではないか。そうした素朴な疑問を抱いていたのだ。「われわれは。科学、技術、生産力、戦略戦術、イデオロギー、情報や宣伝、すべての点で、力が劣っていたから敗けたのであって、わざわざ、文明や道義の敗北などという必要はないのではないか」と反発をしたのである。

 いかに敗者であろうとも、存在の全てが否定されていいわけがない。あまりにも急激な価値の転換が起きたことで、日本人自身が動揺してしまい、それが現在にまで尾を引いているのである。

 

 東京裁判史観に疑義

 

 時流に迎合しない永井の思想を支えたのは、マックス・ウェーバーである。ウェーバーは『職業としての政治』のなかで「戦争の勝利者が自分の方が正しかったから勝ったのだと、『品位を欠く独善さ』でぬけぬけというのは、あたかも恋にやぶれた女性にむかって、その女性の教養や容姿が劣っていたからとか、いろいろ余計な正当化で、さらに屈辱を上塗りするような卑劣な行為」と断じて、それこそ騎士道精神にもとるものとして、「国民は利益の侵害は許しても、名誉の侵害、なかでも説教じみた独善による名誉の侵害だけは断じて許さない」と述べているのに、若い永井は感銘を受けたのだった。

 当時の風潮は、共産党までもが占領軍を解放の旗手と歓迎したくらいで、彼らの「説教じみた独善」を批判するインテリは少なかった。自由の守護者であるアメリカに逆らうことに二の足を踏む人たちが多かったのである。

 その一方で、永井はアメリカの占領政策がもたらした、経済的。思想的な自由・平等といった価値観を評価したからだ。アメリカ人弁護士が日本の被告を弁護する姿にも心ううたれた。

 それでもなお「東京裁判史観」に疑義を抱いたのは、勝手に「共同謀議」をでっち上げたことに違和感があったからだ。一握りの軍国指導者の影響力に疑問を呈したのである。それと同時に永井は「戦後の日本が、占領軍の水ももらさぬ周到な言論統制と検閲で骨抜きにされ、閉ざされた言論空間のなかに自閉させられているとみるにも、かつての東京裁判史観のウラがえしではあるまいか、といま再び感じないわけにはいかない」と主張したのである。

 永井の頭にあったのは、人間は勝手に操作され、管理されないという、ある種の核心である。わざわざ、リンカーンの「多数の人を一時瞞すことはできるし、少数の人を多年にわたって瞞すこともできる。しかし、多数の人を永遠に瞞すことはできないのである」との言葉を引用している。

 普通の日本人であれば、永井のような複眼的な思考はできない。世界秩序は「立法過程」ということになる。不法と思われる東京裁判にしても、世界秩序の秩序に向かうプロセスとしては、一定の意味が与えられるのである。

 「勝てば官軍」の思想が現実を支配していることは事実だとしても、「世界秩序も徐々に成熟する」との希望を持ち続け、個人の良心を支配する価値がグローバルな規範意識に高まることを、長期的には希求しているのである。国家を前提としたインターナショナルと、国家を超えるトランスナショナルのせめぎ合いに注目するのである。

 

  ウェーバー流実践的思惟の哲学

 

 永井がもっとも嫌ったのは「お花畑」である。マックス・ウェーバー、マキャベリ―、ホッブス、レイモン・アロンにいたる「政治思想の正統にたつ実践的思惟の哲学」を踏まえているからだ。

 「(彼らは)国際社会をいわば『戦争状態』を常態とする自然状態とみなす点で共通している。国際秩序は、国内秩序と本質的に異なって、中央政府の欠如した一種の無政府状態であり、民族国家こそ、その生存と優越を求める闘争において唯一の究極的価値の担い手である。国際社会は、融和しがたい、神々の闘争の場であって、暴力(強制力)こそ最後の言葉になる」と述べるとともに、「要するに、ウェーバーにとって、外交や国際政治とは『邪悪なる手段(強制力)』によって善をなすアートである」と定義したのである。

 だからこそ、ウェーバーにとっては、「そこでの可能な選択は、善いか悪いかでもなく、美しいか、醜いかでもなく、『結果』によって判定される、賢明か愚劣かの違いがあるのみである」ということになる。

 しかも、日本を取り巻く世界の環境は、トランスナショナルが「大いなる幻影」であることをまざまざと見せ付けた。

 ここで思い起こされるのは、ウェーバーの弟子であったカール・シュミットの論理である。シュミットは日本では左右を問わず読まれている思想家である。シュミットが『政治的な者の概念』(田中浩、原田武雄訳)において、「お花畑」が国民に大きな禍をもたらすことを指摘したのだった。

 シュミットは「無防備な国民には友しか存在しない、と考えるのは、馬鹿げたことであろうし、無抵抗ということによって敵が心を動かされるかもしれないと考えるのは、じさんきわまる胸算用であろう」と言い切った。そればかりか、無防備に徹しようとする国は滅亡するも予言した。

 「一国民が、政治的なものの領域にとどまる力ないしは遺志を失うことによって、政治的なものが、この世から消え失せるわけではない。ただ、いくじない一国民が消え失せるだけにすぎないのである」

 軍事力を軽視する議論が未だに日本で横行しているのは、アメリカが守ってくれると思いこんでいるからである。「実践的思惟の哲学」が理解されないことの弊害ではないだろうか。

 複眼的思考の永井は、リアリストに徹しつつも理想にこだわり続けた。そこが永井のすごいところで、バランスオブパワーに固執する現実主義者との相違である。トランスナショナルにこだわったのである。「モラルと価値の相対主義の泥沼から、いかにして脱却するかの悪戦苦闘の軌跡であったように思われる」ろ自らの立場を表明しているのが、そのことを裏付けている。

 

 「知のグノーシス主義」を批判

 

 なぜ20世紀が戦争と革命の時代であったのを解くためのキーワードとして、永井は「知のグノーシス主義」を問題とし、パズルを解くようにして、世界を解釈する者たちを批判した。

 永井はよく高坂正堯らと並び評されるが、よりラディカルな問いかけをする思想家であった。福島県の安積中学から仙台の旧制二高、東大法学部を出て学者の道を選んだ。分析哲学を専攻していた実兄の影響もあって、カール・ポッパーのいう「反証可能性」という科学認識における手続法重視のリーガリズムで理論武装していたがために、単純なイデオロギーに引きずられることはなかった。

 イデオロギーの過剰がもたらした悲劇を、リアリストの永井は直視した。20世紀は大量殺りくの時代でもあったのだ。

 「ヨーロッパ内戦といわれる第一次大戦で約千三百万、第二次大戦で約五千万、さらに、スターリン、ヒトラー、毛沢東からクメール・ルージュにいたる政治体制下の、ラーゲリや強制収容所の生地獄で傷つき死んでいった政治の犠牲者は、すくなく見積もっても、億の単位に達することはほぼ確実である。故周恩来首相がかたったと伝えられるように、中国の文化大革命の犠牲者だけでも、日中戦争の犠牲者の数をはるかに上回るともいわれている」

 イデオロギーが人びとを大量殺りくに駆り立てたのである。その最たるものがマルクス主義であった。イスラム過激派もその範疇に属するのはいうまでもない。これに対して、永井が示した処方箋は傾聴に値する。保守主義の原点がそこにあるのを、私たちは再確認すべきなのである。

 「われわれは、よりよい状態を夢見て、この地上に楽園を創りだそうとするまえに、より悪しき状態におちこむことを回避し、現実を少しでも耐えやすいものにするには、何を為すべきか、また、何をなすべきではないかを真剣に考えるべきときなのである」

永井が問題視したのは、20世紀後半の日本の思想的な状況であった。岡崎久彦の『戦略的思考とは何か』、京極純一の『日本の政治』、浅田彰の『構造と力』を槍玉に挙げたのである。

 永井は、岡崎の「地政学的な決定論による官僚エリート主義」を、京極の「田中現象に象徴されるような、日本の“政界”という業界の混沌たる世界を、カオス、ノモス、コスモスの三カテゴリーに還元し、われわれ日本人庶民の慣用語、ことわざ、俗諺の多様な引用のなかに隠されたパターンをえぐりだす手法のあざやかさ」を、浅田の「パリ直輸入の知的ファッションの『着せ替え人形』あそびの身軽さと、その逃走のすばやさ」を評価しつつも、危険な「グノーシス的知性の密教エリート主義」と断罪したのである。

 そこに魔力があるから、なおさらに人々を魅了してやまないのである。岡崎と浅田は、思想的には相反する立場のように思えるが、永井にとっては、何が書かれているかであって、正面上の右左など、どうでもいいのである。

 永井は三人を「古代ギリシアからキリスト教の伝統をへて、マキャベリ、ホッブスから、ウェーバー、レイモン・アロンにいたる政治思想の正統にたつ実践的思惟の哲学とは異なって、この世界を観て意味を了解する傍観者の解釈学におわっている」と批判したのである。

 永井によれば、「知のグノーシス主義」は世界的な流れである。フランスを中心に世界中に圧倒的な影響を与えている構造主義もその一つである。「われわれの知覚する表層の出来事や現象は、その下部にある深い構造とパターンに還元され、世界を記号とその交換、その交換のルールによって解釈可能と考える共通の傾向をもって」おり、マルクス主義に代わるトータルな認識体系となっている。

 二つ目は、新社会ダーヴィニズムとしての社会生物学である。「人間社会や文化の多様性を否定し、人間の社会活動も、白アリにも適用可能な、単純なルールや遺伝情報に還元することが可能とみなす」ことで、新保守主義のプロパガンダとなっている。

 三つ目は、国際政治や戦略論での地政学の復活である。「日本の防衛は、日本をとりかこむ外的環境のみならず、外交姿勢や戦略的選択などの主体的対応いかんによっても変わることを否定し、地政学的位置によって決定されている、と主張するのはその好例である」として、岡崎に代表されるように、日本ばかりでなく、世界中で外交・安全保障に関しては、素人が口出しできないような環境が生まれていることを、永井は危惧したのである。

 それ以外にも永井は、各種のファンダメンタリズム(原理主義)についても、現代版のグノーシス主義の例として挙げている。当然のごとくイスラムばかりではなく、アメリカのキリスト教右派も含まれるのである。

 令和の時代でも、その状況は変わってはいない。ポストモダンを掲げる左派は、観照主義的な価値相対主義のままである。アルチュセールやロラン・バルトの日本における研究家は、新たな「着せ替え人形」として商売のタネにしているだけだ。保守派の多くは、自分たちの言説で説明が付くような口ぶりである。このままでは「能動的ニヒリズムの革命」に屈することになるとの永井の危惧は、より真実味を帯びてきているのではないだろうか。

 

 戦後保守の堅実さを評価

 

 戦後の日本は平和であった。本格的な戦争に巻き込まれることはなかった。だが、20世紀全体でみるならば、戦争と革命の時代であった。情け容赦ない大量殺りくがおこなわれた。

 21世紀に入ってもう20年目を迎えている。永井は「かりにおも、20世紀が21世紀にくらべたら、まだしもパラダイスであったと、羨むようなことが、ゆめゆめあってはならない」と警鐘を乱打していた。そのために、できる限りの努力をすることを望んでいたのである。

 永井は、理想を実現とすることより危機を回避することを主張した。昭和60年に世に出た『現代と戦略』では、その具体策が述べられている。

 危機管理に関しても「あらかじめ準備することは無駄である」と断言し、「危機は回避されるべき」と主張した。「いまは戦争を回避し、抑止するという単一目標にむかって全力投球する以外に、われわれ人類に残されたみちはないのである」と公言して憚らなかったのである。

 新たなイデオロギーによって、新たな地平を切り拓くことに、永井は否定的である。「大東亜共栄圏」や「アジアの解放」とかを断念した戦後の日本の保守の堅実さを高く評価した。ゲーム理論の「ミニマックス」と呼ばれる戦法を採用したからである。

 「自分の内的力を充実し、自己のミスを最小におさえ相手方のミスの自然増を待つ」という戦略である。対外的にはどこまでも低姿勢に徹し、「相手がミスをおかす」のを待つのである。

 日本を取り巻く東アジアの情勢は緊迫してきている。東京裁判史観批判をベースにした戦後体制を揺るがすような日本内部の動きには、韓国やアメリカが敏感になっている。

 現在の日本の「歴史観」や外交・安保政策を疑問視し敵視しているそれらの国家に、どのように対処するかは困難を極めている。正念場に立たされている安倍政権が選択すべき道は、どこに求められるべきか。

 かつて永井は、ソ連に関して「鉄のカーテンに目に見えない無数の孔をうがち、やがてその堤防をも決壊させつつあるものは、まさしく水圧であり“摩擦”の自然増である」と指摘し、「西側の文化の流入が引き金になる」と力説していた。第三世界大戦が勃発せずしてソ連が崩壊したわけだから、かなりの説得力がある。

 

 思想の冒険者永井陽之助

 

 永井はあくまでも生身の思想家であった。徹底的に考え抜いたのである。瑕疵がないわけではないが、そのラディカルさは未だに光芒を放っている。右だとか左だとか判別せずに、何を語り、何を語ろうとしたかを問題にした。

 思想とは突き詰めることであり、自らをアポリアとしての袋小路に追い込んでいくことである。「お花畑」にとどまっていては、すぐに思考停止に陥ってしまう。道がないところに道をつけるのである。誤りや失敗を重ねながらの忍耐強さがなくてはならない。

 永井には高坂のような関西弁の歯切れの良さはないが、結論を急がなかったことで、数多くの問題提起をしたのである。戦後の日本の現実主義者は、パワーポリテックスの信奉者であった。それが間違っていたとはいわないが、そこに立脚しながらも、別の道筋を示した思想家はまれであった。永井は夢見た「トランスネーション」への構想は、最終的な目標にすべきなのである。

 現実を無理して変えることよりも、最悪の事態を回避するために、私たちは努力をしなくてはならない。しかし、そのことは現状を追認することではないのだ。

 ウェーバーの徒でありながらも、永井は夢を捨てきれなかった。永井の志を受け継ぎながら、どう踏み越えていけるかは、私たち一人ひとりに突きつけられた課題なのである。

 思想的冒険者としての永井は、あえてウルトラCに挑戦して、たまたま床に手をついてしまった体操選手である。それを誰も笑うことはできない。物事を単純化して人々を誤った方向に導くよりは、はるかに賢者の道なのである。