身心活動のバランスを崩すということを知るには、内因子と外因子とを抽出するための種々な法則を知ることが条件となる。

その内因子が動機となるか、外因子が動機となるか、あるいは内外両因子がそろって一つの動機を形成するか、この三つの条件が成立されてくる。

これによって、自発的と反応的の「身心活動」が引き起こされる。

この動機こそ「発動因子」であり、心理解析における中心課題となるものである。

心理を測定する一つの基準となるものである。

一般に、欲求充足のバランスという問題が考えられやすいが、それ以前の行動に対する「発動因子」の問題が重要である。

周囲を取り巻く「環境場面」について知っておかなければならない。

その環境場所には「物理的環境場面」と「行動的環境場面」があることを知ることが大切である。

「物理的環境場面」とは「地理的環境場面」とも言い、人間あるいは動物自体が認知しない自然の世界を指向するものである。

次にあげる「行動的環境場面」の説明にによってさらに理解できる。

「行動的環境場面」とは個体が現実的にその中に置かれている生活環境を指向するものであって、個体が認識しうる環境場面を言う。

生活体の行動を規定する認知された世界である。

「物理的環境場面」とは「行動的環境場面」以外の場面、すなわち、意識外を含めた「地理的環境場面」である。

ここで注意しておかなければならないことは、この「物理的環境場面」の認識である。

すなわち、「物理的環境場面」は認識外の環境場面であるから「空間」(何も存在しない)であると解釈されやすい。そこに何ものも存在しないという意味に解釈しておけばよい。

確かに、理論的には個体が認識し得ない環境場面であるから、そこには何ものも認めることができない。

それは「空間」に過ぎないという解釈も成り立つのであるが、「物理的環境場面」が必ずしも「空間」と一致しないということを理解できる。

個体とは自己であるから、自己が認識できない環境場面であっても、自己以外の人間が認識している環境場面があることが分かる。

実例を挙げて説明していこう。

「夜間、山道で黒い小さなこんもりとした茂みを、熊と見るか見ないか」、「氷の張りつめた湖面を原野と思って、知らずに渡ってしまうかしまわないか」、夜の山道で黒いこんもりした茂みを、熊と思って逃げ出していく。

熊と思うのが「行動的環境場面」であり、こんもりとした茂みは「物理的環境場面」である。

その時に、その人が「物理的環境場面」と同じようにすべてを認識し(茂みとして見て)、その茂みのそばを通りぬけていく場面は物理的環境場面=行動的環境場面となる。

しかし、そこには必ず同方向の二つの「環境場面」が存在していることを知らなければならない。

このことをよく認識する意味で、湖面の例をさらに解析していこう。

氷の張りつめた湖面を原野と思って渡ってしまったとする。そこにある「行動的環境場面」は原野と思ってしまった場面であり、その時の「物理的環境場面」氷の張りつめた湖面である。

もし、この認識が「物理的環境場面」と同方向にあった場合、すなわち、氷の張りつめた湖面として認識した場合、その方向場面には「氷の張りつめた湖面であると認識した」行動的環境場面と、「氷の張りつめた湖面という物理的環境場面があることを知ることが大切である。

「物理的環境場面」を一方「地理的環境場面」とも呼んでいる。また、「行動的環境場面」を「心理的環境場面」とも呼んでいる。

これらの環境場面の心理に対する重要性は、欲求、感情、意思などを研究する場合、ただ単に有機体の状態を知るだけでは解決できない場面にぶつかることがある。

例えば、ある展示会に飾られているスポーツカーを見ようと観覧者が集まるか集まらないかは、その観覧者の「行動的環境場面」としてのスポーツカーの要求性を考えなければ、その時の観覧者の行動は判断できない。

そのために、この「行動的環境場面」の研究は多くの分野にわたって行われている。

そこに取り残された「物理的環境場面」は、人間心理に対していかなる関連が持たれているかということである。

基礎的心理学にも見られるように、物理的刺激とその反応という段階においてかなり研究されてきているが、これだけですべてを究明しようとするには種々の困難があるとされている。

それは、物理的刺激であっても、そこに現れる反応はかなり個人差があり、知覚現象においても、かなり心理的な要素によって左右される結果が見られているからである。

この現象をこのような観察点からすべて有機体を中心とした心理現象に帰結(最後にたどりつくこと)、それを判断しようとしている傾向が見られている。

「物理的環境場面」があってこそ「行動的環境場面」が成立していることを認識しなければならない。

個人が認識できないものであっても観察者は認識している場合があり、観察者が認識できない場面でも個人が認識している場面もある。

このような場面に対して環境をどう見るかということは、その環境をどう見るかという主体によって、その環境場面が規定されることで、このゲシタルトが理解されなければ決定されていないからである。