会社経営で業績が悪化したときに、新しいアイディアを出せというのは無能の証拠。

だからダメなんだ。

業績の良いときにこそ、新しいアイディアを考える。

次の手を考える。

ここに上っていく会社と下っていく会社がる。

具体的にというのは、この業績の良いときに次の手を考える。

具体的にどうすればよいのかというのは役に立たない。

抽象的だからこそアイディアは出る。

無責任だというかもしれませんが、大事故のせいで原発反対の声は大きい。

いかに原発が危険かを思い知ったのだ。

あれほど安全でと言われて、ここまで危険だった。

 

分かったんだ。

もうここからは、何も信じないほうがよい。

原発と同じで太陽光発電、地熱発電、風力発電もみんな危ない面があるんじゃないか。

現実問題として太陽光発電、山の斜面を切り崩して並んでいる。

それにおおいかぶさるように樹木は生えてくると役に立たないから周りの樹木を切ってしまう。

付近全部切っちゃう。

枝が伸びて影ができてきたら出力は落ちる。

山をはげ山にすることなんです。

土砂崩れ、土石流の可能性が出てくる。

安全というわけではない。

風力発電の風車。

人家の近くには作れない。

重低音が発生して身体に悪い。

台風襲来のたびに根本から折れるという事故が多発している。

原発を疑う同じ力で太陽光発電、風力発電、地熱発電も疑わなければいけない。

原発と活断層の問題が注目されています。

原発と活断層の問題にするならば、新幹線の下に活断層がないかどうかというのも調べておかないと。

全部きりがない。

心配するんだったら、きりがないところまで心配しないと、安心安全というのは出てこない。

これは良い、これは悪い、これも結論を口にするのはやめよう。

良い悪いで分けていくと、分かりやすく分けてしまうと、ますます問題の本質から離れていく。

こっちが良い、こっちが悪い。

このイエス、ノウの分かりやすさは、ますます問題を複雑にする。

問題についてどう考えていけばよいのか。

多数の論理で賛成の意見が多いということで、その意見が通るならば、原発は直ちに廃止にしたほうがよい。

全部やめてしまえ。

肝に銘ずべきことは、大きい声、沢山の声がいつも正しい意見とは限らない。

そのことを覚えていなければならない。

問題に対する考え方を。

忘れてならないのは、様々な意見の中に正しい意見は隠れている。

世の中に様々な意見があるということを。

良い悪いの二つの意見で分けてしまうと、正しい意見というのは消えてしまう。

様々な意見のために抽象的な意見を考えなければいけない。

楽しく生きたい、だから自由と豊に憧れる。

よく考えてみましょう。

自由であれば、少しも楽しくない。

楽しいとは、間違いなく、辛くて苦しい後にやってくる感情のほうが楽しい。

私たちは、実は楽しいうれしい、豊の前にまずつらく苦しいことを探したほうがいい。

その真後ろにあるんだから。

捉われてしまう経験値から具体的に考えすぎるからだ。

次は何をするのか、明日は何をするのか。

ないから空いたものを埋めようとしまう。

ぼんやり考える。

ぼんやりということがいかに大事かということ。

結果が具体的でないから、予想外のものに出会う機会が多いのである。

具体的な目標がないから自爆的なストレスがない。

楽しさを求めてないので楽しくても苦痛ではない。

苦痛でないから嫌にならない。

目標がないことは成果に縛られない。

ぼんやりとは素晴らしい能力なのである。

近頃の子供たちにはこの能力がないから苦しんでいる。

子供の相談で友達を作ることができないと受ける。

具体的な人は頑張ってと言います。

なんと窮屈な答えだろう。

どうして友達がいないと寂しいのだろう。

寂しことは悪いことなのだろうか。

友達がいても寂しかったらどうしよう。

寂しから友達になってと言われたら、やっぱりその人は迷惑なんじゃないかな。

友達を抽象的に考えていったら、友達ができないということはそんなに重大な悩みではないことがわかる。

友達という枠を作ることが、友達という悩みを作っていることに気づくだろう。

友達という枠を作らなければ、いくらでも友達が作れる。

植物や動物を友達にできる。

本を友達にできる。

悩んでいるうちに抽象的な思考は世界を広めてくれる。

ハウツー本で、想像力、思考力、好奇心を育てようと呼びかける本があるが。

教育とは具体的な知識を詰め込むだけで、才能を育てるとは、もともとあった才能が活かされただけのことだ。

考えるということは体験のことで、すべて個人に託されたことである。

その考えはひらめきがあるからで、ひらめきは発想。

 

発想には手段がない。

なんとなくコツのようなものはある。

普通のことを疑う。

それが新しい発想を生む唯一のコツなのではないだろうか。

普通を少し変えて考えてみる。

その普通によく似たものを探してみる。

その普通を何かに例えてみる。

そういうところから発想が生まれる。

これを飲み込むためには、怖いのはいったい何だろう。

という抽象的思考を持たなければならない。

そうしないと怖いものが見えてこない。

感じたことを言葉にするのは、一面の具体化で全体のイメージではない。

言葉で表したものを言葉で理解すことは実は不可能なのだ。

分かりやすいとか。

具体的だな。

実はわかってない。

分からないよりも分かるほうがまし。

そんなふうに考える人には抽象的思考は育たない。

分かるよりも分からないほうがましなんだ。

そのほうが抽象的思考は育つ。

なぜかと言うとわかったら人は考えない。

意見が対立して喧嘩している二人がいる。

どちらも言い張って自分を譲らないとき。

違うから対立しているのではない。

同じことを考えているから喧嘩になっているのだ。

人間の頭は具体的に理論的に考えたがる。

またそのように考える人を、頭が良いと言いたがる。

計算も理想も推論もがっちり考えたがるが、実は人工物ではない。

脳は自然物なのだ。

臓器なのだ。

脳の中には自然がある。

手入れはできるんだけども、構造は人工物のように保つことはできない。

毎日コツコツ手入れするしかない。

脳も自然だと考えましょう。

自然として咲く花、実、そういうものを地道に育てるしかない。

目指してあてにしてはいけない。

脳にいったいどんな花が咲くか、どんな実がなるのか。

待つのだ。

待とうという考え方が抽象的思考というのだ。

考えることは息を止めることと同じで。

苦しいことだけども息を止めているからこそ、発揮できる力がある。

苦しいことの大事さはある。

考えていない人が多すぎる。

みんな自分がどうすればよいのか選んでいるだけ。

選択肢が見つからないと人に聞く。

知識を問われて答えが見つからないと分かりませんという。

あまり知りませんとは言わない。

知らないくせに分かりませんと言って、知りませんとは言わない。

危険は知ることで防げる。

知ったから危険になるのではない。

知ることで、ある程度危険は防げる。

信じられないことを学んだだけ。

その一個分だけ安全に近づいたんだと。

決められないというのは正しいことの証ではないでしょうか。

問題を固定化しない。

別の側面も見えてくるのではないか。

今は決めないこと、そのうち変化がやってくる。

他者にいつもひとつの意見しか言わない人はすでに間違っている。

なぜならこの人には正しくないという反対意見の正しい人がいるから。