『光る君へ』の道綱くんの話 | 星野洋品店(仮名)

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とある洋品店(廃業済み)を継がなかった三代目のドラマ感想ブログ

『光る君へ』最終回では、1019年から1028年までの出来事が描かれ、多くの登場人物の最期がさりげなく示されました。

 

まずはみんなの癒し 道綱くん。1019年6月に教通(頼通の同母弟)が左大臣 顕光の引退に伴って大臣に昇進するという噂が流れました。結局ただの噂だったけど。

 

道綱くんは道長に、

「道長の兄なのに大臣になっていないのは恥の極み。教通が大臣になる前に、その座を1~2か月でいいから借りたい。今は体調不良で何もできないし、体調がよかったとしても、余計なことをせずに辞任するから」

と頼みました。

 

この話を養子 資平から聞いた実資さんは、

「たしかに道綱には筆頭大納言を長く務めた功績がある。しかし、何も分かっていない人間が大臣になった例はない。そんなことは世間が許さない」

と怒っています。道綱くんは陣定を「だよね~」「同じく」だけで乗り切ってたもんな。

 

「25年も大納言にとどまったということは、大臣など無理ということ」

と道長にハッキリ言われた道綱くんは、

「変なこと言ってゴメン。おれを嫌いにならないで」

と道長のほっぺを手で挟んでムニムニ。自分の能力値の低さを指摘されても怒らないのが清々しい。たとえ役に立たなかったとしても、大納言の座を埋めておいてくれただけでも道長にとっては有難いのよね。他家の昇進を阻む効果はあるので。

 
道綱くんはこの一件の4か月ほどのちに亡くなります。ほんとに体調が悪かったんだね。ちなみに左大臣 顕光が在職のまま亡くなるのは2年後です。道長の3人の娘(寛子・嬉子・妍子)が立て続けになくなったのは顕光さんの怨霊のせいだとか。外戚になる機会を道長によって2度も阻止されたから、恨むのも仕方ない。
 
道長と明子女王の息子で出家した顕信も妍子と同年の1027年に亡くなっています。あれほど子らの出世を望んで嫡妻 倫子さまと張りあっていたのに、母の明子女王はすでに吹っ切れていたのか、残った3人の息子たちと、
「つらい人生だったけど、あなたたちを産んだことだけは良かった」
と笑いあいました。3人の息子たちは頼通・教通政権下でそこそこ出世し、下の娘の尊子は村上源氏 源師房(土御門通親の先祖)に嫁いで長生きしました。明子女王自身も長生きして子孫の繁栄を見届けました。
 
家族の宴で妹 明子女王と舌を出しあって笑っていた源俊賢。四納言の集まりでは、6~12歳年下ながら「酒に弱くなった」「トイレが近くて困る」などと年寄りじみたことを言う4人より意気軒昂でしたが、この集まりの直後、道長の死の半年前に亡くなっています。長患いもせず、急死だったとか。
 
行成くんは道長と同日に亡くなりました。「たとえ同じ日に生まれずとも、同じ日に死す」ってやつですね。ふたりの死を『小右記』に記す実資さんは言葉もなく涙をこぼしました。日記に彼らのことをボロクソに書くことはあっても、人間として嫌いではなかったんだね。

 

わずか半年の内に四納言+道長が、公任・斉信のふたりだけになってしまいました。ドラマでふたりが友を悼む歌を朗誦した際、斉信役 金田哲が頭という字をアタマと読んじゃって、再放送時にカシラと訂正されていました。平安時代のアタマは〈ひよめき(新生児の頭蓋骨に空いている隙間)〉を指します。

 

 
公任は道長らの死の前年(1026年)に権大納言より上には上がれないと見切って出家し、1041年まで存命で、結局四納言で一番の長生きでした。斉信は中宮大夫などの功労で四納言の内で唯一の大納言となり、大臣任官を望んで1035年まで粘ったものの力尽きました。1021年に実資さんが右大臣になり、左大臣・内大臣は道長の息子たちで占められていました。一世代下の頼通・教通兄弟はともかく、10歳年長の実資さんより先に死ぬとは思わなかったろうねぇ。ちなみに実資さんは1046年に右大臣在職のまま薨去しています。