戦後史最大の謎 | 風の日は 風の中を

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~職場や学校で不安感に悩んでいる方へ~
「不安とともに生きる」森田理論をお伝えしたいと思いブログを書きはじめました。
2011年9月からは、日々感じたこと、心身の健康などをテーマに日記を綴っています。

2018年5月も終盤。

 

今月は新潟少女誘拐事件が発生、その後犯人逮捕の報道。

解明に向かっていると思われる。

 

この事件報道のなかの「死後轢断」(列車に轢かれたときには、すでに亡くなっていた)というワードにより、ふと69年前の日本で起こった事件を思い出し、調べてみようという気になった。

1949年。私は生まれていないのだけど、事件があったことは知っている。

 

「戦後史最大の謎」とよばれた「下山事件」である。

 

1949年7月6日未明、東京都足立区五反野、国鉄常磐線と東武線が交差する線路上で礫死体が発見された。

この遺体は、前日に失踪していた国鉄総裁の下山定則氏であることが明らかになった。

 

国鉄とは、現在のJR。その総裁とは、当時は政府の要人という立場であった。

その頃、日本はGHQ(連合国軍総司令部)の占領下。下山総裁は、国鉄合理化に伴う10万人規模の人員整理を実施しようとしていた。 

 

事件発生当初から、下山総裁の死は、国鉄の大量解雇問題と関係があるに違いないと受けとめた人が多かったようだ。(失踪の前日に総裁は第一次人員整理者名簿を発表し、労働組合との団体交渉の矢面に立っていた)

 

大量人員整理を苦にした自殺なのか?

それとも、人員整理に反対する労組左派による暗殺?

日米反動勢力(GHQ→右翼組織)による破壊工作?

 

これらの憶測は報道や世論のみならず、警察内部までも二分する一大論争に発展。

 

捜査一課は自殺説、捜査二課は他殺説で動いた。

警視庁は事件から一ヶ月後、捜査本部の合同会議において「自殺」と判定するが公式発表は行われなかった。

半年後、雑誌2誌に非公式に「下山国鉄総裁事件捜査報告」を流出させる形で、一方的に事件を収束させた。

以降、下山事件は、背景や実行犯の特定はもとより、自他殺すら明らかにならぬまま捜査が打ち切られ事実上の迷宮入りとなった。

 

「結論を出さないまま幕を引く」、こういうやり方を現代でも見たことがある。

権力を握っている者たちにとって、そうするほうが都合がよい場合は、そうなってしまう。

 

それならば「自殺」でいいと私は思った。どっちにしても真相は隠されてしまって知ることができないなら、殺されていないほうがいい。

大量人員整理という「誰もやりたくない役割」をするために国鉄総裁にならされた上、殺害されるなんて、あまりにも酷い。。。

それで、これまでは深く調べる気にならなかったのだが、今月は柴田哲孝さんの本を読んだ。


左の「最後の証言」がノンフィクション。

右の「暗殺者の夏」は小説風にまとめたもの。

 

この本の存在には、ずっと以前に気づいていたが、読んだら他殺が決定的になりそうなので、読まないようにしていた。

しかし今回、思い切って読んでよかったと思った。

柴田哲孝さんは、「戦後史最大の謎」に挑み、長い年月をかけた取材で下山事件の全体像を浮かびあがらせた。

 

なぜ「戦後史最大の謎」にしておかなければならなかったのか?という疑問についても、この本はこたえてくれた。(と言うか、柴田哲孝さんは、その点を押さえていた人だったから通常は不可能な取材を、可能にしたと思う)

 

読了して思うこと。

戦争を体験していない者に「戦争とは何か」をリアルに伝えてくれた本だった。

下山事件の1949年には当然、国レベルの戦争は終わっていたのだが、敗戦国・日本の中で実質、戦争は続いていたのである。

ここで言う「戦争」とは、文字通り「命の取り合い」を指す。

なぜ他者の命を狙うかというと「やらなければ、やられるから」

 

下山総裁は、GHQの指示で国鉄の人員整理を実施するつもりだったが、「自分なりのやり方」でやろうとしていた。

下山氏は良くも悪くも正義漢。人員整理の目的が合理化であるなら、経済面こそ正常化させなければ、という考えのもとに汚職問題に手をつけようとした。(人員整理の主導権を握る交渉材料になると思った?)

入手した資料は「虎の尾」で、、、下山事件の契機になった。

 

当時の国鉄利権は莫大なものだった。

既得権益が絡む問題に手をつけると、凄まじい攻撃に晒されるのは現代でもそうだ。

 

ましてやGHQ占領下の時代。

 

GHQが日本の位置づけを「反共の砦」へと転換していった時代。

大きな分岐点に立っていた日本。下山総裁は、その岐路において象徴的なポジションにいた。

 

国鉄総裁に就任したのは、政治的しがらみが無い人物だったからだと言われている。

そこがGHQの眼鏡にかなった点だったのに、人員整理問題において、下山氏は「言いなり」になる人間ではなかった。

そういった下山氏の人物像は、手塚治虫さんの作品にも出てくる。

 

手塚治虫さんの本のなかで、名前は「霜川」に変えられている。

「霜川」こと下山総裁が登場する場面は、そんなに多くない。

 

だが、手塚さんは物語のなかに、霜川(下山)事件の雛型となった事件(=淀山事件)を描いている。

「淀山事件」というフィクションを盛り込むことで、現実世界で起きた下山事件を解説していたのだと、今さらながらに気づいた。

と言うのは、物語の細部まで、柴田哲孝さんの本と符合するので。

 

主人公・仁朗は、東北地方の地主の次男。

戦時中、捕虜の身となり、復員したときはGHQの工作員になっていた。

やがて淀山事件に関与。

暗殺された共産主義者の遺体を線路上に置く役割を命じられ、実行する。

その後、逃亡。朝鮮戦争の特需をきっかけに、裏社会で躍進、暴力団を設立。

 

作品タイトルの「奇子」(あやこ)は仁朗の腹違いの妹の名前である。

淀山事件が起こったとき、わずか4歳だったが、事件直後、仁朗が血のついたシャツを洗っているところを目撃した。

4歳とはいえ、目撃したことを証言してしまう可能性がある。

「家の名誉」を傷つけないために、奇子は戸籍上、死亡したことにされ、土蔵の地下室に幽閉されてしまう。

 

奇子のように、間接的に事件に関与した者は口封じのため、人生ごと潰される。

 

そして仁朗のように直接関与した場合。指示が伝えられた段階で、それを断ることはできない。

「この命令は一方通行だ」と通告される。

仕事の内容が「犯罪」であっても工作員である以上、黙々とこなすのみ。

その後、年月を重ねて、命令を出した側から命を狙われる。

消されてしまうのである。

真相が表に出ないようにするために。

 

手塚さんの本の中で、事件を追っていた刑事が「つぶら堂」という例えを出して語る場面が出てくる。

※つぶら堂は会津若松市の「さざえ堂」がモデルといわれている。入口から螺旋階段を登っていくと最上階を通過して別の螺旋階段からもとの入口に戻る構造になっている。

 

真相を求めて捜査を重ねても、いつのまにか振り出しに戻ってしまう場合を、刑事たちは、つぶら堂と呼んでいるそうだ。

 

戦後史最大の謎と呼ばれた下山事件は、徹底した役割分担がなされ、事件に関与した者にも全体は見えないようになっていた。

 

自殺に見せかけるため、被害者の替え玉となった人物もいる。

この替え玉と偶然出会って、事件の目撃者にしたてあげられた者もいた。

 

役割を演じている間は自分がしている行動が、どういう意味なのかわからない。

事件に関わってしまったことに気づくのは、後になってからである。

 

時効の直前には、下山事件を追い続けたジャーナリストのもとに、殺害現場に関する「おとり情報」が持ち込まれていた。

そのジャーナリストは下山事件報道の他殺論者としては第一人者だった。

彼を利用して発表させれば、真相を闇に葬るためのプロパガンダが成立する。

そのようなことを積み重ねて、「つぶら堂」(下山事件という迷宮)が構築されていった。

 

柴田哲孝さんの本によると、下山事件の背後には、三つの大きな流れがあった。

 

莫大な国鉄利権を死守しようとした者たち。

事件を反共に利用しようとした者たち。

大局を見つめ、すべてを操ろうとした者。

 

1949年7月。このタイミングで三者の利害関係が一致。

三つの流れの合流点に下山総裁がいた。

 

柴田さんの言葉を、そのまま記す。

「正義の人・下山総裁は、愛する国鉄を守るために、自らの体を盾として投げ出した」

下山総裁のご冥福をお祈り申し上げます。