無意識のうちに | 風の日は 風の中を

風の日は 風の中を

~職場や学校で不安感に悩んでいる方へ~
「不安とともに生きる」森田理論をお伝えしたいと思いブログを書きはじめました。
2011年9月からは、日々感じたこと、心身の健康などをテーマに日記を綴っています。

前記事を投稿したあと、複数の方から、ほぼ同じ内容のメッセージをいただきました。

だいたいこんな内容ダウン


「ブログを読んだしるしに、コメントを入れようかと思ったけど、記事内容への理解がイマイチなので、コメント遠慮するね」


メッセージくださった方、ありがとうございました。
返信できていなくてすみません。
声をかけていただき、うれしかったです。

そして、ノーコメントで素通り、という対応、わたしは心から満足です!!

わからない事=その時点では、必要がない事。
と、前記事について自分はそう考えています。

わからないままに過ごす事。
意識を向けない状態。
森田正馬さんは、そこに自然との調和を見いだしました。

例えば、私たちが食事をするとき。
食べる行為に専念している間、私たちの指はみごとにお箸を使いこなしているのですが、その微細な動きをいちいち意識していません。
もっとも、お箸を持ちはじめた幼い頃は誰もが、持ち方、食べ物のつまみ方を意識的に練習しますが・・・。
『体得』することで、だんだん無意識になるようです。
一度、体得できた事について、意識的操作を試みると、かえってギクシャクした動きになる場合もあります。
私たちは、自分自身に関する事すべてを意志操作しているわけではなかったのです。

むしろ意識しないことで、スムーズに物事が流れることも多々存在します。


前記事のAさんは、確認行為をしたのに、確認の手応えが得られず不安に苛まれていました。このとき、まさに神経症の悩みの真っ只中でした。

悩みから解放された現在では、当時の自分を『不安というものを意志操作しようと躍起になっていたのかも』と振り返っています。


Aさんは、当時「わたしは確認する能力をなくしてしまった…」と表現していました。

自分の手で水道の蛇口を閉めた、玄関に施錠した、という事実があるのに、その実感がもてないのです。

そのために不安が高まり、確認に走るのですが、その確認に、これまた手ごたえがない…


Aさんの話をきいて「なんてタイヘンなことになっているんだろう!!」と、驚く人もいるでしょう。

実際、Aさんは、身近な人から「こだわり過ぎだよ、かわってる~」「そのこだわり、理解ができない」などと言われていました。


しかし、、、森田先生は、上記のような一見不可解に思える出来事も、正常心理から発生している、とおっしゃっています。

確認行為(確認対象を見る)は、比較的、単純な作業です。

このとき「注意」は確認対象に向かいます。

Aさんの場合、ただ「見る」だけでなく、「しっかり確認しなければ!!ちゃんと見て>自分」という意志的努力が加わっていますから、Aさんの注意は「確認対象」と「自分」の間を右往左往するはめになったことでしょう。

人間の「注意」は、じっさい多角的に動くものですが、それは必要に応じて自然に注意ポイントが切り替わっていくというかたちです。

Aさんのように、「注意ポイントを確認対象に向けよう」と過剰に意識するということは、いったん「注意」が自分自身にむかう、ということになります。そのあたりで、単純なはずの作業が、複雑になってしまったのでしょう。


自然との調和をめざす森田療法と出会ったAさん。

悩んでいた当時は、確認の手ごたえは感じられなくても、今、確認行為を○回おこなったという事実はわかる、その事実にそって確認終了とします、と言っていました。心の中は、まだまだ確認が足りない…という思いがあったかもしれませんが…。

いくら確認行為を重ねても、不安を完全に拭いさることはできないんだ…体験を経て、Aさんはそう判断するようになっていったのです。


無意識のうちに、人んちに侵入。

ゆうちん邸にはパンダとカメもいる!!
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パンダは立つ!!

アタマをかく動作もしていた!

かわい~ラブラブ!

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