前記事のおわりに、「笑うと心がかるくなる」と書いたのは、神経症の苦しみを「牢獄のよう」といった女性から、おしえてもらったことです。
その人は「どうして、自分は強迫行為をしてしまうのか」ということに、とても悩んでいました。
最初、不潔恐怖の症状がありましたが、それはひどくならず、やがて確認強迫が強くなりました。
どこまでが普通の確認で、いつから強迫行為になったのか、その境目がわからない、だからいつの間にか、強迫行為にどっぷりつかっている、なぜ同じことを繰り返すのか、、、と自分を責めていました。
やがて、「どこかで強迫行為?と気づけたら、それで十分。すでにしてしまったことはしかたない」と、わりきるようにしました。と言っても、心の中は全然わりきれていないので、「気づけてよかった~」と声に出して言ったり、鏡の前に走って行って、両手で口角をもちあげるようにして、つくり笑顔を鏡に映したりしていたそうです。
このように、すみやかに「別の行動」に心をうつして、確認作業を終了させていきました。
つくり笑いでも、こわばった心をゆるめる効果はある、と言っていました。
この女性が、「牢獄」という言葉をつかったのは、以下のような気持ちからでした。
「強迫観念のせいで心の流れが停滞している」
「自分でそれを流すことができず、途方もない無力感をおぼえる」
「この悩みがいつ終わるのかわからない」
「強迫観念に翻弄されるという事は、わたしは観念の奴隷?」
強迫観念にとらわれている時、心は流れないのでしょうか。
そう感じているから、苦しいのですよね。
森田先生が、発見した対処法は「放任」です。(心の状態に、手出しをしない、そのままにしておくこと)
放任が、どんなときに成立するのかというと、現実に目の前にある、実際の用事(役割や仕事など、そのとき必要が生じていること)に手をつけた時です。
強迫観念に翻弄されているときは、心の中で、観念としっかり向き合っていたわけですが、観念に注目していた「心の目」を外すのです。現実の用事にむかう、自身の行動への注目が結果として、放任という状態をつくり出します。
「放任」がなぜ、停滞した心を流す状況をつくるのでしょう?
それは、心というものは、もともと外界の境遇にしたがって絶えず流転するものだから。
『音楽ですらまどろこしい変幻自在
心は私の私有ではない
私が心の宇宙に生きているのだ』
詩人の谷川俊太郎さんは心について、このように表現されました。
人間が、現実生活で目的をもった行動をとっているとき、はじめて放任=心の自然の流れに身をゆだねるという状態が自動的に成立するようです。
森田先生の考えは、あくまで自然との調和にあります。