大津での事件の報道をきっかけに多くの人が、いじめ問題に目をむけ、おとなとして何ができるのだろうかと、ブログに意見をかかれていた。
わたしのお友達も、教員だったとき、クラスのいじめをとめられなかったことを悔やむ記事を投稿していた。
ほんとにつらい。
あれほどひどいしうちを受けていても、先生方は「見て見ぬふり」
あんまりだと誰もが感じたと思う。
でも…人を批判しながら、自分には、とめられるのか
考えるのもおそろしくフタをしていたが、今日はこのことについて書きます。
年齢的に一桁から二けたになる頃、、、そこから義務教育終了まで
つまり小学校高学年から中学卒業までが、おそろしい時代だね
被害にあってる人、どうか逃げのびてほしい
逃げるのは上策だとわたしは思う
悪いことをしていない人が、逃げる必要などないと普通思うだろうが、歯をくいしばってふみとどまって、自殺の練習を強要され、たすけがこない…
逃げるのをアリにしないと。不登校、転校、避難できるのなら、それは正しい。
いじめる側がわるいことなんか、みんなわかっている
わかっていて、なぜたすけてもらえないのか
「人の尊厳をふみにじる行為は人間として恥」それを指導?
加害者は、わかっていてやってるんだよ
犯罪性のつよいいじめほど、教育的指導がきかない
きかないどころか、こじらせる
(指導された場面だけ沈静化し、裏にまわって激化)
パワーゲームなんだと思う。
教員もこの中に組み込まれている
「窮鼠猫をかむ」行為が、「被害者はぜったいやりかえせない」と気をぬいていた加害者に、たまたまヒットし、「キレるとこわいんだ…」と思われて、いじめがやんだケースを知っているが、希少であろう。
普通は、反撃する気力も機会も封じられている
強い指導者が、いじめ側を力でおさえこめば、いっけん効果があったようにみえるが、24時間体制で卒業まで守ってもらえるだろうか
指導者の目のとどかないところで、いっそう陰湿にやるはずだ
自分以外の力をかりてパワーゲームをひっくりかえすことを、加害者側は「反則」ととらえる
鬱屈をはらす手段としてのいじめ。パワーゲームのなかで、自分より下位の存在をつくることで、自分の心を保とうとしている者が、それを手放すはずがない。
内々に対処しようとするほど、はびこる
暴力に対抗する暴力装置=警察にゆだねるしかないのか
それにしても、加害者に「人権」とやらがあったりして…被害者の安全につながるほど守ってもらえるのかな?
心ただしい人には理解できないだろう
じっさいにパワーゲームの中で加害者役の心の動きを実感しなきゃわからない
体験してもフタをしている人間も多いが…
私は、心身とも弱い子ども時代をすごした
ヤバイ人を察知することについては長けており、視線をあわせないようにして過ごしてきたのだったか。
自分より下位のひとなんかいなかった
自分に子どもが生まれて、はじめて主導権が、支配が…わが手にあるのだと思った
しかし幼い子どもというのは、きわめて暴力的な存在なのである。
子どもに親があわせるしかない。ふりまわされる日々の中、鬱屈がたまっていった。
暴力はきらいなので、こどもに手をあげたことはない。
でもやさしい心にはほど遠く、まとわりつかれると私はいつも逃げた。
やさしい態度をとれないなら、背中をみせたほうがまだマシだと、くつをはいて外に出る。
まってー、とおいかけてくる子ども、逃げる私。
逃げたさきには、幼稚園の送迎バスがとまっていて、先生が子どもを抱き上げてバスに乗せてくれる。
いつも後追い行動を利用して、園バスに乗せていた。
意味を理解しないまま、幼稚園に通っていた子ども。
ごめんね、私は仕事をしなきゃいけなかったし、やさしくもしてあげられなかった。
小学校入学すぐ「学校いけない」と言い出した。
ああ、つけがまわってきたんだなと思ったので、毎日1年生の教室にいっしょに行って授業を受けた。
「よく、そんなことできるね(ずうずうしい)」という声と、「こどものために、がんばっているのね」という声と両方あったけど、私はこの件で、まよったことはない。
私たちには、この方法しかなかった。
殴ったり叩いたりしていないだけで、私は虐待母だったと思うんだ。
「子どもには愛情をもって接しましょう」などと倫理を説かれて、自分がすくわれたとは思えない。
親子のパワーゲームの外に出る、そのことだけが関係を悪化させない有効策だったと今も思っている。
明日から出張でアメーバにアクセスする機会が少なくなるので、ペタを閉じます。
みなさまのブログにもお伺いできないと思います。
みにくい記事かきっぱなしで申し訳ありません。