障害と表現されることについて | 風の日は 風の中を

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~職場や学校で不安感に悩んでいる方へ~
「不安とともに生きる」森田理論をお伝えしたいと思いブログを書きはじめました。
2011年9月からは、日々感じたこと、心身の健康などをテーマに日記を綴っています。

今月、ある雨の日、yukki さんのブログでカーペンターズの曲が紹介された。

記事はこちら→Rainy Days And Mondays


カレンさんの美しい歌声を久しぶりに聴いた。
世界中から愛された歌姫。彼女の若すぎる死の背景には摂食障害(拒食症・過食症)があったといわれている。

摂食障害は、昔は神経性食欲不振症と表現され、神経症のカテゴリに入るものだった。

現代では、神経症という言葉が以前ほど、つかわれなくなっているのだが、神経症の括りに分類されるものには、以下の共通点があることを、私は強調したい。

カレンさんは、亡くなってしまったので、『摂食障害が彼女の命を縮めた』といわれているけれど、そういうケースも残念ながら存在するというだけで、ほんとうは神経症は完治や寛解が十分のぞめるものだということ。
よい治療者に出会うことが大切だけど、治りゆくケースは本人自身の治る力も大きく発現している。


明治生まれの日本の精神医学者・森田正馬は、神経症を正常心理機制から発現するものととらえた。

本人の治る力を発現させるには、これを「病気扱いしない」ことが有効だと考えた。


森田は、症状に苦しむ相談者を病気扱いせず、基本、対症療法をおこなわなかった。

(森田がおこなったのは、主に「生き方の指導」である)

この姿勢は、医学界で異端あつかいされたが、森田は生涯、この姿勢を貫いた。

極力「病名」をつけることは、していなかった。

森田が用いたのは、性質をあらわす「神経質」という言葉。


森田療法の後継者たちは、「神経質」という表現では、患者の苦しみをあらわしきれていないとして「症」をくわえ、「神経質症」という用語をつくった。


現代では、パニック障害、摂食障害、強迫性障害…というように、主要な症状ごとに○○障害という表記になっている。

森田が病気扱いしなかった神経症に対し、「障害」という表記をするメリットは何だろう。

症状に苦しんでいるうちは、何らかの解決法を医療に求めて受診するのであるから、病名をきくことにより、自分のおかれた状況に説明がつき、治療法があるという安心を得る、ということではないだろうか。

障害という呼ばれ方から、「すこやかな生活をさまたげるもの」という意味をうけとっている方もいるだろう。

そういう方には、「神経症の症状は生きる欲望がかたちをかえたものにすぎない」という森田のとらえ方をおつたえしたいと思う。


森田が「病名をつけない」ことで、主張しようとしたもの。

それは、人が心の根底にある生きる欲求に気づき、本来の生きる目的にむかって歩きだすとき、その人の本質はもっとも輝き、そのうちに神経症の悩みは解決していくということである。


カレンさんの美しい歌声は、時空を超えて、今も私たちを魅了する。生ある時間、彼女が本質を輝かせて生きた証である。

記事をかかれたyukkiさんは、昨日わたしのブログにきてくださり、「悲しいのなら、悲しいと伝える。迷っているなら、迷っていると。それが言葉というものでは」と言ってくださいました。

yukkiさんのコメントは、森田の言葉「人の心に自然発生する思いは、自然のままに。人間は自然と一体化する存在」とかさなり、この記事をかくきっかけとなった。ありがとうございます。


1世紀近く前、日本で生まれた森田療法は、科学と人間哲学を調和させたものと評価され、現在では広く海外にも普及している。

中国でも、普及!!

中国って、すごい反日教育をしているクセに、日本のすばらしいものは、すかさずとりいれるんだよね…

カレンさんから、話がズレてきたので、これでやめます。