友人の信仰(29) | 風の日は 風の中を

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~職場や学校で不安感に悩んでいる方へ~
「不安とともに生きる」森田理論をお伝えしたいと思いブログを書きはじめました。
2011年9月からは、日々感じたこと、心身の健康などをテーマに日記を綴っています。

友人のダンナさんから『妻の信仰をやめさせたいと思っているけど、そのために信頼関係がこわれてしまうのなら、意味がない』という言葉をきいた時、なんていいダンナさん、と思い涙が出た。

以前の記事に、友人を入信させた人(Yさん)について書いたことがあるが・・・

この方も、宗教をめぐって夫婦間で対立があり、離婚を前提に別居されているときいた。


私の友人は、Yさんのことを尊敬していて、「夫から離婚話を出されても、信仰心をすてないところが、えらい」とYさんの生きる姿勢をほめるのだった…


なんで、そういう思考になってしまうんだろう。

この宗教団体は、あらかじめ「周囲の反対はおこってしかるべき。そこで信仰心がためされる」ということを信者に教え込んでいるようなのだ。


実際、家庭不和に直面しても、「ああ、やっぱり教団がいったとおりだ」と受けとめる。

(予言があたったかのような受けとめ方で、絶対正しい宗教だから、先のことを正しく予測できるんだ…と、いっそう教団を信じる感覚)


べつに、宗教問題と関係なく、別れる方が幸せと判断して離婚を選択する人は、たくさんいる。

離婚を不幸なコトだと捉える人にとって、「離婚はわるいこと」かもしれないが、もちろん犯罪ではないし、離婚したい人はすればいいよね?


だから、信仰が第一優先で、そのために離婚になったからって、生き方として間違っているとはいえない。(私もソレはわかってるつもり)


じゃあ、犯罪だったら、どうなのかな?

オウム真理教が地下鉄にサリン散布した行為は、社会的にはテロ行為。

教団の犯罪性を認めた人は、信仰を離れ「元信者」になった…


友人にも『犯罪性』を突き付けるしかない・・・そう考えた私は、ある新聞記事を友人に見せた。
それは殺人事件に関する報道。
犯人は犯罪事実を認め服役している。

犯罪をおかしたとき、○○会(←友人が信仰している団体)の幹部をつとめていた。

教団内で事件をおこしたわけではないが、○○会幹部の肩書をもつ人物の犯行だったと新聞記事に明記されていた。

友人の宗教は、現世利益を強調しているところがある。

正しい信仰により功徳が得られる、としながら、現役幹部が人の道に外れる行いをしている。この事実を前に「絶対正しい宗教」という言い方はできないんじゃないの?


友人は黙って新聞記事をみていたが、無表情のまま「わたし、このことを知っていたわ」と言った。

「この人(犯人)は退転した人だったの。だからこんなことになったの」と言う。

退転とは、信仰をやめること。(あるいは違う宗教にかわること)

友人によると、退転は、無信仰以上に罪が重いそうだ。

一度は正しい道と縁を持ちながら、それを貫けないのだから…


。(´д`lll)

何を言われても、「私の信仰は絶対正しい」という答えにもどる思考回路。

カルト脳!?

なさけなくて言葉がでない。

なんでこうなってしまうのか。


次に記事をかくときは「カルト二元論」についてかきたいと思います。