折伏(しゃくぶく)とは、「仏法の力によって悪を屈服させること」
この言葉を、わたしは子どものときに、一度目にしている。
学校の図書館にあった本の中に出てきた。
日本の神話と歴史について書かれた、漫画のような挿絵のある本だった。
人間界で、戦争がおこり、殺戮がくりかえされようとしたとき、空が暗くなり、雲の間から巨大な仏が姿をみせ、戦争を指揮していた人間めがけて雷を落とす。
この頁に「折伏」という言葉がかかれており、人智を超えた「大いなる存在」が人間の思い上がりに対し鉄槌を振りおろす…というイメージであった。
人智を超えた存在…神、仏といったものによる裁き。
私はそのように受けとめていたので、Yさんの息子さんから、折伏が宗教勧誘と同じ意味でつかわれていることを聞いて衝撃を受けた。
だって勧誘は…信者(人間)が未信者(人間)に対しておこなっているのだから、同等な人間どうしのあいだの話だと思うのだけど…。
このことが、端的に教団の体質をあらわしているとも感じた。
友人からファミレスによびだされた日。
開口一番、『悪い信仰が背景にあると思うので幼稚園バザーの手伝いはやめなさいよ』と言われ・・・。
自分の行動選択が『間違っている』と言われたこと以上に、なぜ、そこまで言い切る(他者の問題に一方的に結論を出す)ことができるのかが不思議でボー然とした。
折伏という、強い言葉がしめすように『この宗教こそ絶対正しい、唯一無二』という確信で他宗教を否定していたのだろう。
この団体の崇拝対象は日蓮。
日蓮は鎌倉幕府に『急ぎ法華教に帰依しなければ、この国は滅ぶ』と進言する等、法華教の布教に熱い僧侶だった。
日蓮の熱い布教姿勢をこの団体は受け継いでいるのだ。(良くも悪くも)
日蓮自身、批判や弾圧を受けているが、それらは「法難」と解釈されている。
末法の世で正法(←日蓮にとっては法華経が正法)を広めていくとき、受難はつきものであると考え、受難によってさらに信を深めていったのである。
友人が夫の両親と気まずくなったり、勧誘活動をすることで子どもの学校の保護者たちから反感をかっても、悪びれない態度でいたことに納得がいった。
「受難は、正しい道をすすむとき、避けられないもの」そう思っていたんだろうなー
しかし…まだ15歳のY君、ひきこもりを脱出して学校に足がむいたのはすばらしいと思うが、「勧誘のために学校に来たのか?」と友達から反感もたれていないだろうか?
勧誘しても、相手が怒ってかえってしまったとき、平気なんだろうか。
友達をなくすことを「法難」でかたづけられるのか?
「そんなにうまくいくはずないと、わかっているので大丈夫です」ときっぱり答えるY君。
最初は気がすすまなかったけれど、「折伏することで大きな功徳をえられる」「確信をもてるようになる」と教団からいわれて、やる気になったそうだ。
そう話すY君を、おかあさんは満足そうに見ておられた。
親子でこんなにも納得されていることに、口をはさむ隙はなく、私はあいさつしてその場を去った。(つづく)