自分の父と、夫の父。
二人の父は、性格や職種に共通するものはなかった。
でも、それぞれが私に対して言ってくれた言葉の中で強く印象に残ったものは同じ内容だったことに気づき、今日はそのことを書いてみようと思う。
実家の父は1年前に亡くなった。
「だますより、だまされるほうがいい」
生前の父から何度となく、この言葉をきいて、全部を素直に受けとれなかった…
「だます側になるな」と言いたいのだろうけど。
「だまされてもいい」とは、なかなか思えない。
だまされるのは屈辱的なことだ。
だます側は、相手を「自分のいいように利用してやる」と思っている=なめているわけだから…
そんなしうちをゆるすなんて、自分自身を粗末にあつかうことではないか?
父は、知人からの借金の申し込みに応じて、相手はそのまま行方不明になった…ということが、私の知っている範囲でも数回あった。
父は、はじめから相手が返済できないことを予想していたみたいだった。
父が「だまされてもいい」と判断したのなら、それもひとつの生き方であるが…
相手の人は、どう思っていたのだろうか?
お人よしの父を「利用できる」と思っていたのなら、私は…やっぱりくやしい。
義父は、実父と違い、強い性格で人から甘く見られるなんていうことは、絶対にゆるさない人。
仕事でもワンマンな感じ全開。
そんな義父でも、長年信頼していた仕事仲間からの手酷い裏切りが発覚した日、やはり『だますよりだまされるほうがいい』と言った。
またまた、この言葉を素直にきけない私だった。
義父を裏切った人は、仕事仲間だった間、しょっちゅうわが家にやってきて、一緒に食事をしたり、とても親しかった。
私は、「義父と一緒に仕事をしている」というつながりは別にして、この人のこと、とても好きだった。
義父と同様強い性格の人だったが、年上の義父をたててくださっているところがあり、感謝の気持ちをもっていた。
義父の立場からは「裏切り」と表現するしかないものだったが、この人には、きっとこの人の立場でないとわからない事があったのだろう…自分はそういうふうに感じた。
そして、「だまされるほうがいい」という言葉は、だまされた側が、その事実を受けとめるために、自分のために言う言葉?と考えたりした。
「だまされたほうがいい」と言ったあと、義父は見事なまでに、その人に関して何も言及しなくなった。愚痴ひとつ口にしない父に対し、徹底しているなーと感心した。
かわりに義母が感情的にその人に対する恨みを口にしているのをよく聞いた。
夫のおばあちゃん(義父の母)が亡くなったとき、その告別式に、義父を裏切ったその人が一瞬、姿をみせた。
義父自身にも、他の親族にもいっさい声をかけることなく、焼香をすませると急ぎ足で立ち去っていった。
私は、そのことを義父に知らせた。
亡くなった人が義父の親だからこそ、告別式にわざわざあらわれたのだろう。
お父さん、あの人をもうゆるしてあげたら?
それに対し義父は、「直接、声をかけてもらえれば、きっとゆるせていた。私の顔を直接みられないようでは、ダメなんだ。顔をあげられないで、みつからないように気を配る…そんな位置づけに自分を置くことが、どれほど自分をみじめにしてしまっているか」と言った。
このときは、私は義父がいったことがよく理解できなかったと思う。
きのう、その人に会った(間近にみた)
義父の言ったとおりだった。私たちは二度と顔をあわせることはあってはならない…に分類されていたのだろう。
気の毒なほど動揺され、急いで顔をそらす姿。
以前感じた人としての輝きが全部消えていた。
あんなに素敵な人だったのに今は…。
大きなこと等、何もなしとげられず、これからも私は、日々のささやかな雑務におわれていくのだろう。
そんな中、誇りは、かくれなくても良いことかもしれない。
顔をあわせられない人と、はちあわせそうになったら「自分の方から身をかくさなければ…」そんな暮らしだけはイヤだとつよく感じさせられた。