先月の終わり、近所の小さなあつまりで「お炊き上げ」というのがありました。
お正月飾りを燃やしたりするのですが、そのほか、可燃性の小さいモノなら持ち込んでよいとのことだったので、古い手帳と日記を、炎の中に入れました。
目の前で灰になっていくのは、清々しさがありました。
手帳も日記も、その当時の記録ではありますが、私の中で役割をおえたものだったので…。
古い日記の焼却には、まったく痛みを感じませんでしたが、今、このブログを消滅させるとしたら、きっと痛みを感じるだろうと思います。
いいことを書けているわけじゃなく、マイナスな内容も多いのですが、ここでよい出会いに恵まれた事実があり、そのつながりも一緒に断たれてしまうことを思うと、私には、ブログを消す行為は…痛みを伴うというイメージなのです。
今まで自分が好きだったブログを、ブロガーさんが消去されてしまったこと、何度かありました。
「もう会えないのかな」と悲しく思っていたところ、少し期間をおいて、「また、あらたな気持ちで書いてみます」という連絡をもらえて再会できたときは、とてもうれしかったです。
自分自身は、まだ一度も記事やコメントを削除したことがないです。
下書きの記事を、投稿せずに放置したことは、何度もありますが、いまのところ投稿したものは、そのままにしています。だから、記事やブログを消去する痛みについては想像の域を出ません。
でも、きっと「痛みを超えて、あらたにつかみたいものがあるから、あえて消去という道を選択するのだろう」と解釈していました。
以前の記事(批判する人格を切り離すとき(3)
) で、ブログの立て直しを何度もおこなっていた友達と、いさかいをおこしたことを書きました。
そのときのことを「書く」ことで、みえてきたことがあります。
相手の人のことは、いくらふりかえっても推察に過ぎません。
自分のことについては、ある程度わかったことがあります。
わたしは、自分の正直な感情をブログに書いたことで、この友達を怒らせてしまいました。
「傷つけようとしてしたことではないのでしょう?」と言ってくれた方もいましたが…
今回ふりかえって思うことは…自分には確信犯の部分があったと思います。
私は、「書く」ことで明らかになるモノがあるはずだと感じ、その先を知りたかったのです。
その人は、私がよく、おじゃましていたブログを消滅させるにあたり、お別れの言葉を私に対して、個別に書いてくださいました。
その内容を、わたしは今でもおぼえているけど、その言葉どおりなら、相手になにかをもとめたりすることなく、自然に距離をおき、それぞれの道を歩いていけるはずでした。
でも、私は別れ際に、相手から自分が利用できる人間かどうかためされていると感じ、屈辱の感情を味わいました。
私が腹をたてたことがつたわったと思いますが、それでも喧嘩に発展せず距離をおいていけるなら、それでいいと思いました。
私は、友達だと思った人から、はっきりいってバカにされていたのだと、そう感じていました。
一方で、この人が私という人間に関心があるなら、ブログを見るかもしれない、見てくれてかまわない、という気持ちがあったと思います。
そして、実際ブログ記事を目にしたこの人を怒らせた…
私も、友達も「相手が自分をどうあつかったのか」を知ろうとしたあげく、腹をたてた点は一緒だったと思います。
自分の意志で行動し、こういう結果をまねいた。
愚かだったと思いますが、自ら、しでかしたことなので、よい結末でなかったことについては自分の責任です。
ただ、わたしは一方的な加害者ではないです。それは今でもそう思っています。