昨日(10月15日)は、アメーバ会員の私にとって、いろんなことがあった日でした。
自分のブログは更新もせず、ほったらかし。
それでも、何人かの方がやりとりをしてくださり、それによってブログのあり方を考える機会をあたえられました。
前日にブログ訪問してくれた人の足跡(ペタ)をみていて、その中にKさんという方がおられました。
かわいい絵本の表紙(?)がプロフィール画像で、そこには「ごめんなさい」の文字。
Kさんとは、まだ一度も話していないけど、「ごめんなさい、って何?」と思い、Kさんのブログにいこうとしましたが、エラーが出ていけませんでした。
こんなふうに、つながれたらいいなーと思った時には、退会されていることも、ときどきあります。
また昨日は、私が更新を楽しみにしていたブログを、ブログ主のMさんが消去されてしまった日でもあったのですが…Mさんは、新しくブログをたてる形でもどってきてくれました。
Mさんは記事に「繋がりたい」という言葉を書かれていました。
そうなんです!Mさん。私も、自分はもうブログはやめたほうがいいのでは…と何度も考えながら、まだ、いすわっている理由はそれなんです。
リアルでは会えなかったかもしれない方たちと、思わぬご縁でつながりをもってもらえたこと。
いろいろな考え方、生きる姿勢をみせてもらえたことは、自分の中で宝物になっています。
つながりたいから、ここにいます、と言いながら、この前に投稿した記事のコメント欄を閉じていました。
「せっかく書いたのに、どうしてコメント欄を閉じたの?」とメッセージで問いかけてくださった方(Iさん)がいました。
Iさん、ありがとうございます。
気にとめていただき、声をかけてもらったこと、すごくうれしかったです。
それで、あらためて自分がどういうつもりなのかふりかえってみました。
「ブログには主観を一方的に書かせてもらい、批判は受けつけません」という姿勢にみえたと思いますが…。
実際、そういう気持ちもあったと思います。
公開日記である以上、人を不愉快にしないよう、配慮は必要だというIさんの意見に私も同感です。
ブログを続けるなら、意識しておかなくてはいけないことの一つだと思っています。
しかし、すべての人に受け入れられるという意見などあるはずもなく、「こんな事をかいて、また変な記事を投稿していると言われるかも…」とくよくよする自分もいます。
「自信がないのだからブログそのものをやめる」
「みんなとの繋がりをなくしたくないから、ブログをのこしておく」
両方の考えがありました。
もともと日記は自分だけのノートに書いていました。
コメント欄を閉じることで、自分の気持ちが以前の日記(ノート)に近づいたような気がしました。結果、迷っていた記事を投稿することができたのです。
記事を書いたものの「投稿することが怖い」。はじめて、そう思ったのは8月25日でした。
怖くて怖くて投稿をやめたかったです。
何をそんなに恐れたのかと言うと、コメント欄にどんな書き込みがされるのかわからなかったからです。
とても怖かったけれど、この記事を投稿して「裁き」を受けなければ、私はブログを続けることができない、そんなふうに考えていました。
このとき、私は自分の記事が人を傷つけたという指摘を受けていました。
それは、意見の相違を指摘するような一般的なものとは違っていました。
傷ついた人は、以前アメーバの中で私と交流をもってくれた人であり、抗議のメッセージを書かれたのは家族の方でした。
くわしくは当時のブログ記事にかきましたが、意見の違いについて話し合おうという感じではなく、どれだけ私(みなみ)が人の心を傷つけたのか思い知りなさい、ということのみを強調されていました。
ここまでいわれるような罪が、私にはあったから言われたのでしょう。ただ、このときブログを終了させることをもって解決という形を私はとりたくなかったのです。
人を傷つけるのは、もちろんいけないことです。そういう結果をもたらしたことを反省すべき立場におかれたのは間違いありません。自分の反省すべき点についてはブログに書かせていただきました。
ブログをやめるにしても、自分にとっても、それが最善と思えないとそういう形はとれません。
「傷ついた」という本人が、正面から意見を伝えてくださる形を私は望んでいました。
その願いはかないませんでした。
その時は、アメーバ会員のIDを持っておられたのに、あえてそれをはずして書き込みをされました。
私は、その人からのアクセスを待っていたので、その時点で私のブログへのアクセスがどこからのものか、自分にはわかるようにしておいたのです。
以前、親しく言葉をかわしたときと同じ立場(IDをもつことは、同一の人格として発言する、という意味があると私は思っています)で、私と接する気持ちが皆無であることが、その行為によってあきらかになりました。
とても悲しかったけれど、私にはこの事実を受け入れるしかありません。
このとき私が直面した問題を一緒に考えてくださった方がいました。
物事をいろいろな角度から考えることのできる柔軟性のある人でした。「反省すべきところを反省して、またブログをかいたら。書くことで整理がついていきます」と声をかけてくれたその方が、現在、ご自分のブログを停止されています。
とても人気のあるブログを書いておられたのですが、ブログの中の表現方法が適切でない、とその方の勤務先に対しクレームをつけた人がいたのです。その人がやめなければならないとは思えなかったのですが、職場に迷惑をかけた形になったからと、停止を判断なさいました。
悪いことをしていない人が、総合的に判断して「停止」を決めたとき、じゃあ自分はどうなのかな、まだいすわっているけれどいいんだろうか、と考えてしまいました。
いまだ迷いがあることについて、先日、ある人から、そんなにも傷ついていたんですか、と言われました。
人を傷つけた立場によって、たしかに私自身も傷つきました。でも「傷ついた」と主張できる立場ではなく、そんなふうに言いたくありません。
9月16日の記事に書いたのですが、自分の中の「傷ついた部分」ばかり注目している間は、「自立する心」から遠ざかることを教えてもらったからです。
前述のIさんは、穏やかな交流を楽しめるようになれば一番よいのだけれど、それには自分の主張だけでなく、人の気持ちを「察したい」というところを大事にしないとね…ということをメッセージに書いてくださいました。
Iさんみたいになりたいです。
自分ひとりの日記だと、Iさんとお話しすることもなかっただろうと思うと、やはりこの場所にいられること、恵まれていますね。
こんな形のお返事になってしまいましたが、Iさんの思いやりに、とても感謝しています。
ありがとうございました。