確か私が5歳の時だったと思う。

もう55年前の話だ。

 

クリスマスの朝は、当時も今も子供にとって一大イベントだ。

5歳となればサンタクロースがやってくると信じており、クリスマスの朝までに私の枕元には憧れのサンタクロースがプレゼントを置いてくれるのを楽しみにしていた。

 

クリスマスの朝、目覚めた私の枕元に置いてあったのは、折り紙の束1つだった。

当時の学校でよく使う、15cm四方の正方形の折り紙だ。

よく見ると金銀の紙が入ったものだったが、それとて馴染みの折り紙と違いが無かった。つまり特別な物ではなかったということだ。

それを見つけた私は困惑していた。

 

そして折り紙を手に取って食器を洗っていた母親の方にトボトボと歩いていった。

当時の我が家は市営団地に住んでおり、8畳の部屋のすぐ隣が台所だった。

狭いところに住んでいた。

母親に幼い私はたどたどしい声で「これ何?、サンタさんのプレゼントは?」と尋ねた?

母は、「それをサンタさんが置いていったのよ」と背中を向けたまま答えた。

私は、「こんなんじゃ嫌だ・・」と半泣きで言ったが、母はそれがサンタさんからのプレゼントなのと言うだけだった。

私は期待を裏切られた事で折り紙を持ったまま泣きじゃくったと思う。

 

この記憶は今でも鮮明だ。

 

この歳になると、当時の私の家の苦境が忍ばれる。

この年の地方公務員の父のボーナスは、期待を大幅に下回ったのだろう。

日本が高度経済成長期で民間企業の給与の良い時代、我が家はそれとは逆だったのだ。

あの時、台所で背中も向けたまま私の顔を見なかった母は、きっと苦しい心を押さえつけていたのだろう。

母だって私が喜ぶようなクリスマスプレゼントをしたかったに違いない。

 

あれから長い時間が経過した。

 

母は間もなく94歳になるが、残念ながら間もなく虹の橋を渡ろうとしている。

コロナ禍のため、老人ホームの面会もままならないため、この3年近く、毎日こちらから電話をして話をするくらいしか出来なかった。

 

そんな中、先日、今生の別れをしてきた。

老人ホーム側も母の余命を知っており、特別に会えるようにしてくれた。

 

見つめ合う親子の目の奥に、言葉では言えない光と声を感じた。

 

体調が思わしくない中で、私がspotifyで再生した石原裕次郎の赤いハンカチを流すと、弱弱しく擦れた声だったが歌ってくれた。

 

分かれる際、大きく右手を挙げてサラバと言っている感じだった。

 

女っぷりの良い母らしい。

 

母のティーンエイジャーの時代は、戦時下だったこともあり、苦労の多い人生だった。

それでも地道に真面目に生き、40代で地方都市に一戸建てを得て、その後、華道の師範を取るなどして様々な自己実現をした。

犬も2匹飼い、最後まで父と共に添い遂げた。

 

その母の人生も間もなく終わろうとしている。

 

今は感謝の念しかない。

 

母から来た最後の手紙の末尾にはこう書いてあった。

 

悪に走らず優しい人になってくださいね。

さようならネ!