まず、以下の記事をお読み頂きたい。
(以後の記載において敬称略)
斎藤幸平は、『人新世の「資本論」』という書籍をベストセラーにして世間に名前が知られるようになった。
テレビにも出演していた時期があるので、顔や名前は知られているだろう。
若干35歳の人物だ。
彼の主張等を拝聴すると良く判るが、シンプルに言えば反資本主義であり、社会主義思想に傾倒しており、共産主義者と言って過言ではないだろう。
資本主義の限界をマルクス主義に求める辺りは、1960~70年代に先祖帰りしているのか?と思うほど。
私のような世代からすれば、その思想、既に上手く行かない事が証明されているんだが・・という感じで、強烈なデジャブ感に襲われるのだが、若年層の一部にもマルクス主義に傾倒している人たちがいるんだなあ・・と感慨深い感覚がある。
上記の記事は、美術館へのテロ行為の背景に関して斎藤幸平が一般人に警鐘を鳴らした内容だ。
誤解を恐れずにテロリストたちの主張を要約すれば以下だろう。
「地球という最も重要なものを守るためには環境維持は大事だ。にも拘わらず二酸化炭素の排出量は減っておらず気温上昇が止まる気配すらない。この主張を地道に行っていても世界は資本主義の既得権から脱しようとしない。従って資本主義の象徴的産物である高額美術品をターゲットに行動を起こした」。
斎藤幸行の主張は彼らの考え方、行動に肯定的だ。
地球を保全するという揺るがす事が出来ない大義に即するものであれば、あの行為は容認範囲であり、それどころか、環境危機に鈍感な一般大衆や政治家の学び不足に大きな問題がある。
彼らが地球と環境の保全派の主張を理解し、寄り添わないのであれば、こうした行為を咎める事は出来ない、という論調だ。
つまり自分たちの高次の意見に同調出来ない連中には実力行使を厭わないのは当然という事だ。
これに対して上念司が興味深いツイートをしていた。
「斉藤氏のこのロジックに従えば、斉藤氏をいくら説得しても社会主義捨ててくれなかった場合、斉藤氏にスープぶっかけてOKということになります。そこまで覚悟して言ってます?」
1970年代初頭、日本には連合赤軍という過激派学生集団がいた。
彼らは自分たちの主義主張を貫徹させるために銃や現金を強奪し、同じ組織の仲間たち言いがかりのような理屈を突きつけた挙句殺害。その残党どもはあさま山荘に立てこもって無実の人間を人質に取った。
彼らは無批判に自分たちが善で、社会が悪という二項対立の中で、誤ったエリート意識を持って社会改革(陳腐な革命思想)を実行しようとした。
その一部は、旅客機をハイジャックして北朝鮮に渡り、仲間を超法規的措置によって解放して海外に逃げた。
当時のテロリストたちの全知全能感には驚くが、これは現代でも同様だ。
そして今も昔もこういう連中はクズである。
民主主義は、こうしたクズであっても一定の発言機会を与え、その評価を一般大衆が行える点で優れている。
但し民主主義は恐ろしく手間と時間がかかり、非効率な面もある。
それでも人類の長い歴史の中で、多くの人間の意見集約の方法として確立され、現在においても日々アップデートしているのが民主主義である。
それに反して斎藤幸行の主張は完全に全体主義国家の主義主張の行動様式に即している。
自分たちのような高次の理念を持ち、その無謬性(むびゆう/誤りのないこと)により、自分たちの正しく高次元的な主張を理解出来ない愚かな人びとは啓蒙、教育しなければならない。
高次の自分たちが導いてあげなければ正しい社会を維持出来ないというものだ。
そして理解出来ないのであれば、暴力的措置も容認される。
どっかで聴いた事がある主張じゃないか?
そう、かつての過激派学生たち、中国共産党幹部たちや独裁国家の上層部の言動で馴染みのフレーズだ。
左翼思想の連中は50年近く経って世代交代してもその思想、行動様式に全く変化がないことが今回の斎藤の論評で分かった。
テレビで斎藤幸行の主張を聞いた事があったが、ハッキリ言ってお花畑論である。
マルクスの資本論辺りを読んで感化された人間に特徴的な発言が多く、今更マルクスかよ??って感じだった。
そもそもマルクス資本論は、「労働価値説」を土台に成り立っている理論だ。
「労働価値説」を咀嚼して言えば、物の価値は労働量によって決まる、という事だ。
もうお分かりでしょう。
物の価値は、需要と供給によってのみ決まる、が正しい。
これは主義の問題ではなく、事実だ。
どんなに手間暇かけて作ったものでも、需要が無ければ無価値であることは多くが普通に理解出来る事だろう。
従って誤った根拠の上にどのような理屈を並べても成立しないため、マルクス資本論は成立しないと判る。
マルクス資本論の研究は教養としてはともかく、実効性のある学問として学ぶのは時間の無駄だし、その理屈で成立する実態は現実世界にはない。
東京大学大学院の准教授クラスでもこんな簡単な事が理解出来ないのは、既にマルクス資本論や経済学が宗教の領域に入っているからだからだと思う。
宗教は議論の対象にならない。
人が何を信じるか信じないかは議論出来ないからだ。
今回の環境活動家の動向を見ていると、既に宗教に近い。
今回の過激抗議デモは、米国の富豪マネーが支えている。
20世紀の「石油王」の孫娘が、スポンサーだと名乗り出た。
米国の慈善活動家アイリーン・ゲティ(65)がスポンサーしている活動団体「最後の革新」は、非営利団体「環境緊急基金」が支援する環境ネットワークのひとつだが、「私は地上の生命を守るために、資産を使うことを誓った」と発信したようだ。
アイリーン・ゲティは、石油事業で成功した祖父から多額の遺産を受け継いだ。
身内の誘拐事件に遭遇した時は16歳だったはずだ。
この顛末は映画「ゲティ家の身代金」という映画が詳しく描いている。
身代金支払いを拒絶した祖父が、その間にも高額な絵画購入をしていたのを見ていただろうから、アイリーンが今回の美術館への活動を支持する背景心理の一端は、そんな部分にも根ざしているかもしれない。
意識高い系の連中は、資本主義の中で自分たちが成功を収めている事を置き去りにして綺麗ごとを並べる悪い癖がある。
上野千鶴子のように、高級マンションに住み、外車を乗り回して、自分だけ安全圏にいながら、「国民は等しく貧しく暮す社会にすべき」などという、普通なら恥ずかしくて言えない事を平気で言える連中が、意識高い系の正体だ。
いずれにしても、何を信じるかはそれぞれが決めたらいいが、民主的な方法でのみ世の中は動く。
それを忘れたら人はついてこない。
斎藤幸平の論評を読んでそう思った。