ノイジーマイノリティーという言葉が出来たようだ。

多分、「Noisy minority」と書くのだろう。

当然、和製の造語だ。

和訳すれば「ウザい少数派」という感じだろう。

 

民主主義的な尺度で言えば、左翼シンパとその賛同者の行為や活動を、マスメディアという拡声器を使ってレバレッジをかけ、まるで民衆の意見の支持があったかのように扱い、世論誘導する動きを言うのだろう。その典型が以下だ。

 

 

上記は、長崎新聞が報じた記事に関するツイートだ。

この記事の元リンクは既に削除されているが、たった5人の国葬儀反対デモをわざわざ記事にしたことで相当な批判された。

5人でデモ?

散歩だろう・・。

当然だが長崎新聞は、国葬儀賛成派の情報は全く載せない。

5名のデモにどのくらいのニュースバリューがあるというのだ。

長崎新聞は自ら自社新聞のバリューを下げた。

 

また、ばかばかしい事に国葬儀反対論者の連中は、こんな映画まで作っていた。

 

 

何とかに付ける薬は無いというが、これはその一例だろう。

上映前の作品なので、論評はしない。

表現の自由もあり、それはそれで問題ない。

 

但し、言っておくが、山上容疑者は、殺人者でテロリストだ。

安倍元首相は、遊説中、背後から無抵抗の中、山上容疑者に暗殺された被害者なのだ。

その事実は変らない。

 

日本の憲法は法の下の平等を謳っており、法的処理はその通りに行えばいい。

しかし、山上容疑者の人権は、安倍元首相やその家族の人権に優越して扱われることが正当であるはずがない。

当然、安倍元首相に投票した多数の有権者の人権に対しても同様だ。

山上容疑者は、自らの人権を蔑ろにして、他人の人権を暴力で奪った人間なのだ。

山上容疑者の過去を知った一部の連中が、見舞金等を送ったという報道に接した際、オツムの弱い人はどこにでもいるもんだと呆れ果てた。

山上容疑者を賛美もしくは憐憫する連中は、テロリストや無法者、暴力団を賛美する連中と変わらない。

 

山上容疑者の映画を作ったという映画監督の足立正生氏は、元連合赤軍のメンバーだ。
今の若い人たちは知らないかもしれないが、連合赤軍は、過激暴力集団だった。

 

足立氏は、映画監督としての経歴をそれ相応に持っているが、過去の取材に対するコメントとして、現在は生活保護を受給して生きている」と話し、(国から保護費を貰っているから)「職業は国家公務員だ」と話している。

回答が余りにもアホすぎてコメントが出来ないが、国家権力を否定し続けて生きているなら、せめて忌み嫌っていた国家権力から処遇される社会保障を拒絶する位の気概は無かったのか?と思うが、自分の切実な実生活になると話は別なのか?

 

反権力的行為は、全てが許されるという幼稚な思考回路の連中は、年齢を経ても思考回路が変わらないのだろうか?と感じた次第だ。

 

昔から、綺麗ごとを言うやつらにロクな連中が居ない

昨今、環境問題、核兵器廃絶、戦争反対などを声高に叫んでいる連中が多い。

また社会や企業もその正論に無批判に乗っかっている。

 

表向き、環境問題、核兵器廃絶、戦争反対は正しく感じる。

しかし、それを実行するというステージになると全く話が違う。

 

ロシア・ウクラウナ戦争によって顕在化したエネルギー問題。

脱炭素の先陣を切っていたドイツは、エネルギー供給をロシアに依存しすぎた上に、自国の原子力発電を完全に止めてしまった後にこの戦争によるエネルギー問題に巻き込まれたため、2022年冬以降に大きな課題を抱えてしまった。

国家のエネルギーリスク管理を見誤ったのは、社会主義者のメルケル氏だが、社会主義者の彼女らしい間抜けなチョンボだ。

 

核兵器廃絶論は、理屈上は異論がないほど正しいが、既に世界で3万発近い核兵器を持っている現実の中でそれが対応できるかを考えれば、現実的であろうはずもない。

残念ながら核兵器廃絶は、誰が最後の1発持っているかについての疑いを完全に晴らすことが出来ないため、そもそも無理ゲーなのだ。

我々はある種の破滅に向かって生きていることになるのだが、それが人類全体としての無能の現れかもしれない。

 

戦争反対についても、ロシアのような国家を目の当たりにすれば、無理ゲーだと分かるだろう。

つまり、こうした綺麗ごとを言う連中は、魑魅魍魎とした人間社会の現実を無視しているのだ。

「ウザい少数派」のロジックは常に非現実的なのだ。

 

メディアはそれらに拡声器を与えて煽っている。

 

だから、私は新聞を読まず、テレビも最低限しか見ない。

 

それで全く困ったことがない。