還暦までに様々な人と出会い、時には支えられ、時には支え、そして多くの人たちとは一期一会だ。
それでも人によっては、数多くの人的交流を維持しているエネルギーに満ちた方もいるだろう。
残念ながら私にはそれが難しいと感じている。
facebookを更新しなくなってかなりの数年が経つが、理由は簡単で、繋がっている「ともだち」と言われる人たちと、私のアップする記事が利害関係的に衝突を起こす可能性を恐れたからだ。
また儀礼的に「いいね」を押したり、時にはコメントしたり、誕生日のメッセージを書いたりと、結構な手間とメンテが必要だ。
また、繋がっている「ともだち」たちのアップしている記事に触れていると、実は私とは人生観や思想信条が合わない人ばかりだと気が付いてしまった事がある。
時には、この人、そういう考え方の人だったんだ・・と驚く時すらある。
若い時はそうした違いをそれなりに吸収出来た面もあったが、ある年齢になると、どう考えてもケミカルの合わない人たちを、自分の周囲に置きたくないという気持ちの方が強くなったこともある。
儀礼的な付き合いになるほど私にとっては負担であり、時間と金を使ってまで交流する価値を見出せなくなった事もある。
先日、20代に務めた会社の社長が亡くなって2年ほど経ったので、回想会を開きたいと招待を受けた。
お誘いは有難かったし、その社長には随分とお世話になったので伺うのが筋だと思ったが、参加対象者の名簿を見て、その場所に行きたいという感覚が無くなったので丁重にお断りを入れた。
その理由の1つは、社長の葬儀で当時の同僚たちに再会した際、同僚の一部との空気感に何か釈然としないものがあったからだ。
何とは上手く言えない感覚なのだが、実に複雑な気分だった。
私にとって重要な経験をした時代を過ごした人たちだったのだが、今の時代になって
彼らの居る場所に居たいとは思わなくなっていたということなのだ。
私と同じ年齢でも若い時と同じように人的交流を負担に思わない人もおり、羨ましい反面、あれだけの人的交流のメインテナンスをどうしているのだろう?とも思う。
それともご本人は頓着しない人なのだろうか?
私には、付かず離れずの人間関係が合っている。
誰かに自分の生活にズカズカと踏み込んで欲しくないし、逆に相手の生活にも踏み込みたくない。
交流した時は、共有した時間が有益になれるようにしたいと思っているし、それが継続出来る関係でもいたい。
そういう感性のある人は、意外と多くない。
人によっては私は冷たいと思われるかもしれない。
確かに私は孤独壁がある。
音楽を聴きながらの読書が好きで、一人で色々と思考することも好きだ。
出かける時も独りで行くのが性に合っている。
それでも私も人間なので、人恋しい時はある。
しかし、なかなか私とケミカルが合う人が見つからない。
私の不徳の致すところだろうと思っている。
いずれにしても、これからはストレスになる人間関係を持たないというのが私の信条である。