2020年代に20歳代の人たちの検索が最も多い分野に「シティ・ポップ」があるらしい。
シティ・ポップとはキチンとした定義がないのだが、
概ね1970年代後半から80年代に日本の音楽を彩ったポップスを示しているようだ。

代表作品として挙がっているのは、竹内まりや氏のプラスティック・ラブ、
山下達郎氏のSPARKLE、南佳孝氏のスローなブギにしてくれ(I want you)
大貫妙子氏の色彩都市などがあるらしい。
現代では大滝詠一氏やサザンもシティ・ポップの範疇という事だ。

実は当時を知る者としてこの選定にはかなり違和感がある。

実はシティ・ポップ以前に存在していたジャンルにニューミュージックがある。
ニューミュージックの代表選手の一人が荒井由実氏(その後の松任谷由実/以後「ユーミン」)がいる。
彼女のデビューは1972年だが、実はその時代の音楽を席捲していたのはフォークミュージックだった。
60年代後半から活躍を始めたかぐや姫、吉田拓郎氏、井上陽水氏などが中心だった時代だ。1972年は井上陽水氏の氷の世界というアルバムが日本初のミリオンセラーになっており、当時の井上氏はフォークジャンルのミュージシャンだった。
しかしユーミンの登場で70年代後半に向かってフォークミュージックは廃れ、一部のミュージシャンはニューミュージックに吸収されていった。
実際、井上陽水氏は氷の世界を発表以降、フォークジャンルと見なされなくなったし、吉田拓郎氏も同様だった。

ニューミュージックは音楽業界や音楽関係の雑誌出版の関係者が命名した音楽ジャンルだが、当時も今も自分たちの音楽がニューミュージックだと言思って活動していたミュージシャンたちは皆無だった。
それでもジャンル化されることで目新しさを抱くユーザーがいるため、パチンコ屋の新装開店方式で、こうした事が起きていた。

さて、ニューミュージックも5年程を過ぎると古びてきて、業界は新しいジャンルを必要とした。
70年代後半にシティ・ポップというジャンルが産まれて来たのにはそうした背景があった。
しかし、70年代中期から山下達郎氏、大滝詠一氏、大貫妙子氏などのミュージシャンを愛していたユーザーは、彼らの音楽をシティ・ポップというジャンルでは見ていなかった。
当時のこうしたミュージシャンたちは総じて売れていない人たちで、サブカルの世界で活躍していた人たちで、主に洋楽の影響を受けた音楽をやる人たちであり、全くポップな存在ではなかったからだ。

また彼らの多くは作詞、作曲、編曲、歌唱を全て自らが行う人たちで、レコード会社指定の作家が曲を書き、編曲家がアレンジを、歌手は歌うだけのような、従来のアイドル制作の手法を取らない人たちだったため、シティ・ポップに属すると言われる歌手との横並びは非常に違和感があったのだ。

松原みき氏のSTAY WITH MEは、当時も今もシティ・ポップの代表曲だが、彼女は唄を中心とした活動をするアーティストで、尚且つ歌唱力もあり、これが旧来のアイドルとは一線を画す部分で、シティ・ポップというジャンルと一致した。個人的には松原みき氏のSTAY WITH MEの存在が当時のシティ・ポップに一番相応しいと感じている。

従ってシティ・ポップとはアイドルの進化版のような位置づけだったと感じている。
コード進行にはM7や分数コードを多用し、アイドル歌謡とは全く違うテイストと歌唱力のあるパフォーマンスで一線を画していた。
また、シティ・ポップの持つ響きには、都会的な洗練されたポップスという感じがあった。
そもそも山下達郎氏や大貫妙子氏シュガーベイブというロックバンド出身者だったこともあるが、そのため彼らのようなミュージシャンをこのジャンルに含めるのには違和感があった。
ちょっと尖った音楽を嗜好していた当時のファンにとって、シティ・ポップとはちょっとエッジの効いていない音楽だという感覚があった。

それでも角松敏生氏、南佳孝氏、来生たかお氏などは当時としても、シティ・ポップと認知されているミュージシャンもいた。
本質的にはアイドルの進化系ジャンルなのだが、都会的な洗練されたポップスという限定的な定義においては彼らの音楽は合致していたかもしれない。

そういう意味で、シティ・ポップの定義とはかなり曖昧だったと言っていい。

なお、若干古びた感じになっていたニューミュージックは、同時代でも生きてシティ・ポップとニューミュージックは、ボンヤリした形で共存していた。
当時の山下達郎氏を強制的にジャンル化するとニューミュージックの方がまだシックリしていた。それでも山下達郎氏のような音楽スタイルは当時なかったため、ジャンル分けする意味はないと考えていた。
シティ・ポップという軽い響きは、当時の山下達郎氏の音楽を反映しているとは感じられなかったからだ。

それでも現代において、シティ・ポップという形で当時の音楽が3世代も下の人たちに聞かれているのは、当時を知る者として嬉しい。
山下達郎氏は当時から、時代の風雪に耐える音楽を作っているという意識を持っていたというから、彼の試みは成功したと言っていいし、その奥方の竹内まりや氏も同様だ。

最近再発された竹内まりや氏のプラスティック・ラブのアナログ盤を買った。
既にレコードをプレイできる機器を持っていないのが残念だが、音楽バーにでも持ち込んで聴こうかと思っている。

 

LONG LIVE CITY POP!!