(前回記事)
(3)
笠置シヅ子と服部良一の運命の出会い
2023-11-18
https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12829081369.html
(今回記事)
https://syakaika-turezure.com/boogie-woogie-fateful-love/
https://news.livedoor.com/article/detail/14454941/
笠置シヅ子こと亀井静子が最愛の人となる吉本興業の御曹司吉本穎右(えいすけ)に出会ったのは、戦果が烈しくなった1943年(昭和18年)6月28日のことだった。
当時の笠置は、松竹歌劇団が無くなってしまい、意には染まないが、渋々「地方への巡業」や戦時下で増産増産という体制に陥っていた「工場慰問」をして、細々と活動を続けていた。
名古屋への巡業の際、旧知の間柄だった辰巳柳太郎が出演している劇場の楽屋を訪ねた。
笠置はそのとき、先客としてその場にいた眉目秀麗な青年(自伝『歌う自画像』より)に出会う。ただし、このときは、互いに言葉を交わすことは無かった。
後日、今度は、笠置が出演していた太陽館という劇場に、吉本興業の名古屋主任が先日の眉目秀麗な青年を伴って訪れた。そして、「この青年は、吉本興行の御曹司で、『笠置の大ファンだ』」と紹介する。
青年は、笠置に緊張した面持ちで一枚の名刺を差し出し、「自分は、吉本穎右(えいすけ)と申します。」と名乗った。
※「お互いにひと目ぼれ。とくに笠置さんは、その長身の貴公子然とした雰囲気に言葉を失ってしまったとか、グレーの背広をシックに着こなす端麗さは、まるで米国俳優のジェームズ・ステュアートだったと自伝に書いていますが、このときもらった名刺は生涯大事に持っていたそうです」
恋の始まり
吉本穎右(えいすけ)が笠置の出演する太陽館を訪れたとき、笠置と穎右は初めて言葉を交わした。
会話の中で、「明日、大阪に行く用事がある」と、穎右は笠置に話す。
すると笠置は、「自分も明日、神戸の相生座(あいおいざ)という劇場に行く予定だから、一緒の汽車で行きましょう。」と誘った。
穎右(えいすけ)は即座にOK。
二人は翌日、同じ汽車に乗る。
約束の日、笠置が名古屋駅に着き穎右(えいすけ)を探していると、吉本興業の支配人が来て、「穎右さんは、もう汽車に乗っていますよ」と告げた。
笠置は、「荷物が多いから、穎右さんを呼んできてください。」と支配人に言った。
支配人は、『荷物持ちなら自分がするのに』と思ったが、考え直して穎右の元へ走り、笠置の言葉を伝える。穎右は、すぐに笠置の荷物を運ぶためにホームに降りてきた。
会って間もないこの時点で、笠置は何やら穎右を尻に敷いている感じがする…。
さらに穎右は、大阪に行くはずなのに、大阪を通り越して笠置の目的地の神戸まで同行した。笠置を見送ってから、大阪にとんぼ返りをしている。
献身的に女性に尽くす、初々しい青年の姿がそこにあった。
吉本穎右との恋を育む
当時、吉本穎右は早稲田の学生。年は20歳。
笠置は、このとき29歳。
穎右は、笠置の9歳年下。
初期の二人の関係は、笠置が穎右を弟扱いし、穎右も姉として笠置に甘えるという姉弟的な間柄だったようだ。
穎右が笠置の家に遊び行ったり、笠置が、穎右の吉本家別宅(東京市ヶ谷に吉本家の別宅があった)に遊びに行ったりしていた。
このころ、笠置の家には、うめ(ブギウギ・ツヤのモデル)が病死し、弟八郎(ブギウギ・六郎のモデル)が兵隊に取られて一人になってしまった義父音吉(ブギウギ・梅吉のモデル)が同居していた。
姉弟のような間柄、といっても音吉としては、居場所に困ったことだろう。
二人は、すぐに恋人関係に移行した。
笠置シヅ子は、知的でハンサムな男性が好み
二人は、もともと一目惚れだった。
笠置は最初の出会いから、穎右に荷物運びをさせているし、自分を神戸まで送らせている。穎右は、わざわざ笠置の楽屋を訪ねている。
笠置は、知的でハンサムな男性がタイプだった。
松竹歌劇団のときに恋心を抱いた、益田貞信もこのタイプだった。
だから、早稲田の学生で映画俳優かと周囲に思わせる程の眉目秀麗な吉本穎右は、笠置にとって理想の男性だったはずだ。
「9歳年上」という年齢差に多少の壁は感じたかもしれないが、互いの気持ちが前向きなのだから、その壁が崩れるのにそう時間はかからなかった。
※「とはいえ9歳の年の差ですから、姉と弟のような関係でスタート。当初、笠置さんは、穎右さんが自分を女性として真剣に愛していることにしばらく気がつかなかったほどです。それでも、東京でお互いの家を行き来するうちに、一直線に恋の炎を燃えあがらせたのでした」
二人は、1944年(昭和19年)の暮れに結ばれた。
※翌19年暮れには結婚の約束を交わすが、空襲が始まり戦況が悪化するなかで、穎右さんは、なかなか母親(吉本せい)に報告することができずにいた。
「しかし漏れ聞こえてくるかたちで、せいさんの耳に入ってしまいます。当然、激怒。結婚を反対されました」
まだ学生の身、2人は釣り合わない……。
反対理由はいくつも挙げられた。
「せいさんは生涯で8人の子どもを産んでいますが、長男は夭折。元気に育ったのは3人の女児と33歳で出産した穎右さんだけでした。
その約3カ月後に夫の秦三を亡くしていますから、並々ならぬ愛情をそそぎ込んでいたと思います。しかも彼は母親と同じぜんそくもち。徴兵の対象外になるほど体が弱かった」
笠置シヅ子の最も幸せな時期
笠置と穎右が愛を育んだ時期は、日本の歴史上最悪の時期だった。
1944年7月、サイパン島が陥落。
これにより、本土に米国の攻撃が直接及ぶ可能性が高まる。
こうなると、学生と言えども徴兵を免れることはできない。
さらに、そんな時期穎右は当時死の病と恐れられた結核にかかってしまう。
日本が一番苦しかった時期であり、穎右の健康がむしばまれてしまった時期でもあるが、二人にとっては恋が深まる最良の時期だったのかも知れない。
二人の最良の時期は、わずか3年たらず
1944年の暮れから、1946年のわずか3年足らずの期間が二人にとっての愛の時間だった。
1944年、穎右は結核のため喀血(かっけつ)している。
そのために、学徒動員は免除になる。
笠置は、敵性歌手というレッテルを貼られ、歌手としては「地獄だった」と当時を振り返るような不遇を味わっていた。それにもかかわらず、愛は深まり、二人は結婚を誓う。
数ヶ月の同棲生活
1945年5月25日、東京に大空襲があった。
このとき笠置は、京都で公演中だったので難を逃れることができた。
だが、三軒茶屋の借家は全焼。
さらに財産は全て焼失。
笠置は、無一文となった。
義父の音吉も無事だったが、笠置と一緒にいられなくなり、しかたなく郷里の香川県引田に戻っている。
同じように、市ヶ谷にあった吉本の東京の別宅も焼失している。そこで、穎右と笠置は、その年の年末まで借家で同棲生活をおくことになった。
※昭和20年5月、空襲でお互いの東京の家が焼失し、住む場所を失ってしまうが、東京支社長だった吉本せいさんの弟・林弘高さんが、自宅横のフランス人宅を借り上げてくれ、そこで初めて2人一緒に住むことがかなう。
「笠置さんは後に、このときのことを“わが生涯最良の日々”とつづっています。最愛の人とひとつ屋根の下で一緒に暮らすことができたのは、この半年間だけだったからです」
しかし、このころには穎右さんの体は結核に侵され、喀血することもあった。
二人が一つ屋根の下で暮らすことができたのは、この半年あまりのほんのわずかな時期だけだった。
仕事も少なく、金も無く、健康にも恵まれない夫婦だったが、このわずかな期間は何物にも代えがたい最良の期間だったのではないだろうか。
穎右の死
戦後の1946年(昭和21年)、穎右は早稲田大学を中退し、吉本興業東京支社の社員として働くことになった。
それに伴い、二人の同棲生活は終わりを告げた。
※「8月に戦争が終わると、穎右さんは母親に認めてもらおうと、大学を中退し、東京支店の社員として必死に働き始める。笠置さんももっと活躍すれば認めてくれるのではと、作曲家・服部良一さん宅に間借りし音楽に集中しました」
笠置は46年の1月21日に、吉祥寺の服部良一(ブギウギ羽鳥善一のモデル)の家の二階に仮住まいすることになった。
さらにその年の4月には、服部の家を出て、目黒に知り合いの女性を頼って引っ越しをしている。
笠置の妊娠
二人は別々に住むようにはなったが、その間も愛は深まっていった。
その年(46年)の5月の末には、笠置と穎右と、穎右が笠置のために雇った笠置のマネージャーの三人で、箱根に旅行した。
そして46年(昭和21年)10月、笠置は自分が妊娠していることに気付く。
吉本穎右の病
47年(昭和22年)1月、笠置は、世田谷に一軒家を借りて引っ越した。そこで、穎右が付けてくれたマネージャーと一緒に住む。
このころ、穎右の結核は次第に悪化していった。穎右は、兵庫県西宮市の実家に戻って療養に専念することになる。
1947年の1月14日、笠置は東京駅で穎右を見送った。
そしてこれが、穎右との永遠の分かれとなる。
※「このとき、彼女は妊娠していました。お腹を抱えるようにして向かった、東京駅での“お見送り”が2人の最後の時間となったのですーー。
笠置さんは、その2週間後に日劇の舞台に立っています。妊娠5カ月のお腹をスカートとショールでカモフラージュしてやりとげました。“引退公演”だからと」
もう仕事は終わった。兵庫にお見舞いに行きたいという笠置さんに、穎右さんは《臨月も近いので、来るにおよばず》という手紙を送る。そのころ、反対していた吉本せいさんは“孫ができるなら”と態度を軟化させる。
「人づてでしたが、笠置さんに何度も『体にきいつけて』『あんじょうしいや』とメッセージを送ったそうです」
担当医に『長くはもたない』と宣告されたとき、せいさんは、笠置さん1人を穎右さんのいる兵庫まで運ぶためだけに、300人乗りの豪華客船をチャーターしようとする。病床の息子に「しーちゃん(笠置さん)に会いたかったら船を用意するで」と。
だが、穎右さんは「(船に乗ることで)万一のことがあったら大変や。生まれてくる子がいちばん大事。僕はその次や」と、言い残すようにして23歳の若さで亡くなった。産院で訃報を聞いた笠置さんは、当時の日記にこう記している。
《全身がぶるぶるとふるえ、お腹の子までも息が止まるのかと思うばかりだった。(中略)穎右がラッパを吹いて、その音色に合わせて自分が歌っている夢をみた》
それから13日後、笠置さんは産気づいた。
「お腹の子の父の死の報が伝えられた“悲しみのどん底”で、32歳の初産に臨まなければなりませんでした」
穎右の死
穎右は、1947年5月19日にこの世を去った。
享年24歳。
出産
穎右の死の知らせは、出産を間近に控え笠置が入院している病院に届いた。
最愛の人を亡くした悲しみ、そして笠置にとって33歳になろうという年の初産なのに、付き添ってくれる身内は一人もいない。心細かっただろう。
笠置は、穎右が残した浴衣と丹前を探し出し、産院の壁につるしてもらった。その穎右の丹前と浴衣だけが、このときの笠置の心の支えとなる。
6月1日笠置は、陣痛に襲われる。
笠置は、穎右の浴衣を壁から外してもらい、それをぐっと抱きしめ産みの苦しみに耐えた。
「彼の浴衣を抱きしめると、彼の匂いがして、『自分はひとりぼっちでは無い』と感じられた」という。
笠置は、女の子を出産した。
ヱイ子と名付けた。
※吉本興業を一代で築いた女傑吉本せいもその心労からか、間もなく健康を害して入院したが、シズ子は、当初は2人の結婚を反対していた吉本せいを娘を連れて見舞っている。
そんななかで、吉本家や、後に吉本興業を姉のせいから受け継いだ林家が一人娘の引き取りを打診してきたこともあったが、シズ子は自分も貰い子であった過去から、娘には同じ想いはさせたくないと考えて、一人で育てることを決意した。
この後、乳飲み子を抱えて舞台を務める姿は、当時「夜の女」「パンパン」と呼ばれた生活のためにやむをえず売春する女性ら(いわゆる街娼)に深い共感を与え、シズ子の後援会は大半がこうした女性によって固められるようになった。
体調を崩していた吉本せいは、1950年(昭和25年)に息子を追って60歳の若さでこの世を去った。
終わりに:
「笠置シヅ子」の運命の人、吉本穎右との運命の恋
日本が歴史上最悪の時期を迎えているとき、笠置とその恋人吉本穎右は、ごく短いが最も幸せな時期を迎えていた。
二人は、結婚を誓っていたが、穎右の病死(肺結核)により、その二人の願いは果たせずに終わる。
だが、穎右の死の約一月後、笠置はたった一人で愛娘「ヱイ子」を出産した。
ヱイ子が生まれる前に、父である穎右が死んでしまったため、私生児として育つ。
笠置シヅ子の娘、亀井エイ子
笠置シヅ子さんの最愛の人、吉本穎右さんとの一人娘は、亀井エイ子さんです。
亀井エイ子さんは、1947年(昭和22年)6月1日生まれ、今年2023年には、76歳ですね。
この亀井エイ子さんは、芸能活動などは行なっておらず、プライベートなことははっきりわかっていないようです。
しかし、何の番組なのかわからずですが、2021年の1月に、テレビに出ていた、という情報があります。
BS11で、お母さん、笠置シヅ子さんの事を語っていたのでした。
「母からは、たっぷりの愛情をもらった」と。
そして、歌手を辞めてからは、鼻歌すら歌わなかった、ということも。何というか、潔い人ですよね。
(中略)
1981年、笠置シヅ子さんに、乳がんが発覚します。
そして、1983年には、卵巣に転移が見つかります。
ついに、1985年(昭和60年)都内で逝去されます。
70歳の時です。
「日劇時代は楽しかったね」とつぶやいたのが、最後の言葉だったそうです。
自身の人生を全身を駆使して、目一杯生き切った人、と尊敬の念を覚えます。
https://popsfanlife.com/kasagishizuko-prof-1395
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(1) 笠置シヅ子の壮絶な生い立ち(前編)
2023-11-17
https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12828953681.html
(2) 笠置シヅ子の壮絶な生い立ち(後編)
2023-11-17
https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12828994773.html
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