(前回記事)
心の履歴(98)  

化け猫屋敷にやって来た見知らぬ人
2023-08-13 

https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12816090693.html

 

(今回記事)
2008/10/06 著

1969年(S44)、大学紛争・全共闘運動が激しさを増し、大学もバリケード封鎖。
歌手加藤登紀子の夫・藤本敏夫(故人)が京都を離れて東京で暴れていた時代です。

二年間程は授業ナシのレポート提出でした。
年間でとった単位が僅か4単位(一科目)のみの年もありました。

他方、一生懸命アルバイトに精を出すも、アルバイト中、S運送会社の林総務課長の自家用車にノーブレーキの時速70㌔でオカマされ、アルバイト先の会社の車は台座がねじれ修理不能で廃車に。以後十年間、気圧が下がると軽い頭痛と唾液が出て苦しむこととなりました。

同年、アルバイトで貯めて中古の車を購入。カローラバン21万円。同時に下京区の化け猫屋敷から新築の山科のアパート家賃1万円に引っ越しました。

その年、つまり私が緑化工務店(仮称)を去ってから二年後の1969年(昭和44年)、緑化工務店(仮称)の社長が死去。相続人は夫人と貰い子の一人娘の二人なのですが、夫人の兄が強引に廃業し、西洞院通りの駐車場と家屋と、亀岡の数百坪の土地を売却してしまいました。

従業員ははした金で若宮通りのウナギの寝床から放り出されました。無論、岡本さん(仮称)もその中の一人でした。

岡本さんは若い時、京呉服卸店で有名な市田株式会社(註)に勤務。20歳代若くして課長になったやり手でした。

 

(註)市田(いちだ)株式会社

初代市田弥一郎は滋賀県東近江市五個荘町出身。

昭和17年(1942)には本店を京都から東京に移した。

昭和39年(1964)には東京、大阪証券取引所市場第一部へ上場。初代弥一郎は明治29年(1896)家督を二代目に譲り、自らは明治35年(1902)京都左京区南禅寺に對龍山荘(たいりゅうさんそう)を所有し、庭園を改造して別荘を営み、花鳥風月を愛でて余生を過ごした。そして明治39年(1906)64歳で亡くなった。

処が上司のトラブルに巻き込まれ、いわばトカゲのしっぽ切で市田を去り、緑化工務店に転職したのでした。

 

無論、緑化工務店の顧客開発などでは流石「市田」出身、凄腕(すごうで)を発揮しました。

 

余談ですが、南禅寺の参道沿いにある初代市田弥一郎氏が所有した市田・對龍山荘(たいりゅうさんそう、京数奇屋名邸十撰)の女将:市田ヤエさんと岡本さんは懇意で、1966年から1967年にかけて対龍山荘には私は岡本さんと何度か訪問し、お茶を馳走になっていました。

ほっこり京都人(7)

国指定名勝「対龍山荘」の思い出
2020-04-14 

https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12589500680.html

 

尚、同時期に私が立石電機(オムロン)の創業者立石一真氏の嵯峨野・鳴滝の自宅で信子夫人(宝酒造創立者の娘)からお茶を馳走になった時、紺色の着物姿で縁側に立って庭を眺めていたのが当時28歳の三男立石義雄氏(1939年生まれ、後の三代目社長)。

京都散策(2)

当時の京都の社長夫人:立石信子夫人、他
2020-04-14 

https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12589585942.html

 

その妻:会美子氏(旧姓:市田)が市田ヤエさんの二女であることを知ったのは2017年ですから50年後となります。

 

緑化工務店が廃業した故に、そこに長らく務めていた21歳年上の岡本さんは、私の持つ金ぴかの特殊講習受講合格証書を元に、私と二人で美園社を立ち上げました。

 

流石、岡本さんです。

早速、当時、宅地造成中の比叡平の仕事をとってきました。

比叡平とは、中国系の東南商事が京都・北白川仕伏町から山越えして大津に抜ける京都府道・滋賀県道30号の途中の山を宅地造成しているものです。

 

その仕事と言うのは、宅地造成中の比叡平の土質は何と砂地で、大雨が降る都度、大量の砂が深さ5m程の砂貯留槽に流れ込み蓄積。その砂を槽から引き揚げる作業なのです。

 

作業は平安高校の学生の授業が午前中のみの場合で、午後から彼らを私の車に乗せ、比叡平に連れて行き、バケツをロープで結わえ、それで彼等に砂貯留槽からの砂揚げ作業をさせました。

 

然しこれはラッキーな受注で、幽霊会社美園社が簡単に仕事を受注できるはずは無かったのです。

 

緑化工務店時代の岡本さんは、各企業の工場の仕事をする際にはここが要と称し、都度、守衛に両切りの煙草ピース5箱を新聞紙で包んで渡していました。初回は守衛一人に付きその包み一個でしたが二回目以降の工事の時は二個でした。

無論、この手法は、施設課長にもドドンと使いました。20個入りカートン8個(160箱)をここでも新聞紙に包んで。時にはこの新聞紙の包みを2個(320個)から3個(480個)を渡しました。

ですから施設課社員達の煙草が切れたら、入札対象の金額に満たないように次の新たな補修工事が舞い込むというシナリオです。

然し、このような緑化工務店時代の顔があると言っても美園社は幽霊会社ですから上場企業はおいそれと取引口座を開設してくれませんでした。

 

心の履歴:20代編 目次
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